ミシェル・フーコー『主体の解釈学』

フーコーの講義録である。1982年の講義から:

セネカについて)人生をはっきりとした段階や生活様式に区切ったりせずに、一気に駆け抜けることだ。一気に駆け抜け、理想的な老いという理想的な地点にたどり着かなければならない。・・・それでは、老齢のゆえ、浪費された時間のゆえに急いでおこなわなければならない労苦とは何なのでしょうか。所有地から、所有財産から遠く離れたものに心を遣っていてはならない。近い所有地を気づかい、それにすべての注意を注がなければならない。この近い所有地とは私自身ではないだろうか。彼は言います。「精神全体が自分自身をきづかう」「自分自身にかかりきりになる」ことが必要である。・・・たとえば第17の書簡では「もし君が自分の魂animusを気づかおうと思うなら」という表現があります。遠い所有地ではなく、もっとも近い所有地の世話をしなければなりません。この近い所有地とは自分自身のことです。彼は言います。この逃げ去る動きにおいては、自分を観照することに目を向けるべきなのだ、と。「逃げ去る動き」とは賢者としての逃走や退却のことではなく、時間の流出のことです。人生の最後の地点に私たちを導くこの時間の運動において、私たちは視線を向け直し、みずからを観照の対象としなければなりません(306頁)

こういう講義を行なうための準備時間が十分に与えられ、こういう講義を集中して聞く聴衆にめぐまれたフーコーはなんと幸福だったことよ。この点はひたすらうらやましい。フーコー晩年は、こういう人生の哲学、そしてギリシア以来の汝自身を知れという命題、そしてそれが社会権力性へと織り込まれるというところから何かを開こうとしている。興味深い。

デカルトが思考したのは、世界において疑いうるものについてではありません。また、疑いえないものについてでもありません。これは普通の懐疑的な訓練にすぎないと言ってよいでしょう。デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置きますが、疑いうるもの、その存在を疑いうるものについて問いたずねることはありません。そしてデカルトは、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くのです。したがってこれは思考やその内容についての訓練ではありません。主体が思考によってある状況に身を置く訓練なのですここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があります。(406頁)

講義のよいところは、こういう思考の流れを記録できるところだろう。