ミシェル・フーコー『知の考古学』

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学(新装版)

知の考古学(新装版)

下のものが「知の考古学」の旧版でながらくこれしかなかったが、今回、文庫で新訳が出た。旧版の訳者は中村雄二郎、新版は慎改康之である。中村訳のころから比べてずいぶんとフーコー研究も進み、資料の出版もなされ、フーコーの文脈が理解できるようになったから、新訳はうれしいところである。

本書では「考古学」という方法が、思想史に代わって強調される。

考古学が明らかにしようとするのは、諸言説のなかに隠されていたり表明されていたりする思考や表象やイメージやテーマや強迫観念ではなく、諸言説そのものであり、諸規則に従う実践としての諸言説そのものである。・・・

諸言説によって実現される諸規則の作用が他のいかなる作用にも還元不可能であるのはどうしてなのかを示すことであり、・・・・考古学は、言説の諸様態の差異をめぐる分析なのである。・・・

考古学は、人間が言説を発したまさにその瞬間に、人間によって思考されたり、望まれたり、指向されたり、感じ取られたり、欲望されたりしたかもしれないことを、復元しようとするものではない。・・・それは、起源の秘密そのものへの回帰ではない。そうではなくて、それは、対象としての言説のシステマティックな記述なのである。(263〜265頁)

この引用部分の前後全体を読むと、考古学およびディスクールというものをフーコーがどう捉えていたかがよく分かる。

フーコーの新訳としては、あと「狂気の歴史」と「監獄の誕生」をぜひ文庫でお願いしたいものである。


フーコーの論文講演などを集めたものだが、手元に置いておくと便利。小林康夫による解説が分かりやすい。

歴史家たちが考える歴史は、本質的には、人間が「為したもの」にある。・・・だが、フーコーが考えようとしていることは、そうした人間の行為がいったいどのような規定・条件づけに従っているか、ということなのである。・・・行為はかならずある種の場の規制にそって行なわれるが、しかし本質上、事前的であるこの場はかならずしも行為主体によってつねに明確に意識されているわけではない。・・・(429頁)

日本語で「知」と訳される「savoir」・・・の動詞は単に「知る」ことだけではなく、能力として「できる」ことを指し示す。・・・フーコーは、われわれの生、われわれの行為の可能性をあらかじめ書き込んでいるような歴史的な認識の条件付けや規制としての「知」を研究しようとしているのである。それは、それに従って社会的な制度が生み出されたり、また消えたりするような「知」なのであり、それ故にほとんど「権力」・・・と隣り合い、浸透しあっている「知」なのである。(430頁)

[フーコーは]むしろ中心性をその最大の特徴とする従来の権力観とはまったく異なる、分散マトリックス的な権力の考え方を導入していくのだが、その権力論とかれの実存的な政治参加はおそらく通底しており、支え合っているのだとしても、しかしかれはそれをそのまま「思想化」しはしなかったように思われる。むしろ「実存」は、フーコーにおいては、個々の主体の選択に委ねられ、任されていたようにわたしには思われるのだ。(433頁)