塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ フェミニスト倫理の視点から』

2014年6月27日週刊読書人掲載

この本を読んではじめて、日本の人工妊娠中絶が世界のスタンダードからとんでもなく遅れており、日本の女性たちは時代遅れの環境で危険な中絶手術を行なっているという事実を知った。日本は医療技術の先進国だとばかり思っていたが、その常識が崩れ去ってしまった。この書評を読んでいるみなさんも、本書に目を通せば、日本の現状に唖然とするであろう。

中絶というと、女性のお腹の中の胎児を殺して、そのバラバラになった身体を掻き出すといったイメージを持っている人が多いのではなかろうか。私もそうであった。実際に日本の産婦人科で行なわれている多くの中絶が、そのような方法(拡張掻爬術:略称D&C)でなされている。手術は全身麻酔で行なわれる。しかしながら、世界のスタンダードを見てみると、この方法が主流である国は、先進国では日本以外どこにもないのである。そればかりか、いまやWHOは拡張掻爬術を使うべきではないと勧告しているのだ。
WHOが指定する方法は、真空吸引(略称VA)というものである。これは、局所麻酔をしたあと、電動あるいは手動で子宮内容物を吸引除去するやり方で、数分以内にすべてが終わる。女性はそのあいだ意識があるので安心することができ、痛み、出血、子宮穿孔リスクが少ない。これは胎児がまだごく小さい初期中絶に適用される方法で、米国では一九七〇年代に拡張掻爬術から真空吸引への転換が行なわれた。

米国で真空吸引を体験した女性の文章によれば、まず細いチューブが子宮の入り口に入れられ、機械のスイッチが押されてから、わずか数分間で子宮内容物が吸引される。排出されたものは「赤い少しドロッとしたもの」であり、肉眼では特別な物は何も確認できないと体験者は言う。いまやこれが先進国の標準である。

実は、もうひとつの新しい中絶の方法がある。それはミフェプリストンという中絶薬を使うやり方である。リスクがあるとの疑義もあったが、現在ではそれは否定され、WHOのお墨付きもあって、海外では通常に使われている。これはさらに画期的なものである。というのも、薬さえあればいいわけだから、妊娠した女性が自宅で中絶をすることができるのである。中絶は流産に近い方法で行なわれ、自分で処理するのでプライバシーの侵害の心配が少ない。重い月経のようだと表現される。著者も強調するように、これはまさに女性の自己決定権に即した中絶だと言えるだろう。

ところが、日本はこうした世界の潮流から完全に取り残されていると著者は言う。二〇一〇年に著者らが行なった調査によれば、実に九割もの医師が現在なお拡張掻爬術を行なっているのである。拡張掻爬術を行なうには、ある程度胎児が大きく育っていなければならないから、日本では、妊娠初期の中絶希望女性に対して、胎児が大きくなるまで待つようにとの指導がされることもあるようだ。海外では真空吸引ですぐに終わるにもかかわらずである。
ではなぜ日本でこのようなガラパゴス化が起きたのかであるが、それについては著者の綿密な歴史研究をぜひお読みいただきたい。一点、指摘しておけば、日本で中絶薬による自宅中絶を政府が規制しているのは、日本の刑法に堕胎罪があるからである。妊娠女性が自分の手で中絶をするのは犯罪なのである。日本の法体系では、堕胎は国家によって管理されるべきものであり、けっして女性自身がそれを行使してはならないのである。結局のところ、この問題は、国家による人間の再生産の管理という急所に行き着くのである。
本書の後半では、女性たちがみずからの身体をコントロールし、社会の中で自身の生き方を切り開いていくためのリプロダクティヴ・ジャスティスと、女性の経験からボトムアップのやり方で構築されるフェミニスト倫理の展望が述べられる。この部分は希望に満ちており、男性である私にとっても勇気づけられる内容であった。本書は、中絶を切り口とした、すぐれたジェンダー学の成果だと言えるだろう。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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