若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

2013年11月24日日経新聞掲載

本書で取り上げられる池田晶子は、『14歳からの哲学』などのベストセラーで知られる哲学エッセイストである。池田の文章は、自分の直観的な結論を読者の前にポンと投げ出すというスタイルであり、非常に独特である。

池田自身が敬愛しているプラトンデカルトヘーゲルは、なぜそのような結論が導かれるのかについて渾身のロジカルな議論を重ねるのであり、評者はそこにこそ哲学の醍醐味があると考えているので、池田のスタイルには不全感を禁じ得ない。

しかしながら、本書の著者である若松は、池田のそのようなスタイルによってこそ光を当てることのできる思索があるのだという。そして池田のテキストをたんねんに読み解いて、そこから繊細な果実を抽出してくるのである。

若松が池田に読み取るのは、「言葉はいったいどこから来るのか」という問いである。ある言葉が、書き手を通路として貫いて彼方から降臨してくることがある。そのとき、その言葉を発したのは書き手なのか、それとも彼方の存在なのか。

読み手のほうにおいても、同じことが言える。私がある文章に、いかづちのように撃たれるとき、私が出会っているのはその書き手なのか、それとも書き手という通路を伝ってこちらまでやってきた彼方の存在なのか。

池田はこのあたりの消息を、「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだ」と書く。若松はこれを、さらに存在の深みに向けて掘り下げていく。するとそこには、池田という書き手を「場所」としてそこでさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風が立ち現われ、そこにおいてちょうどつぼみが開花するように、言葉が、魂の交わりのコトバへと変じていくというのである。

若松は、自身が敬愛する哲学者、井筒俊彦を読むようにして、池田を読んでいるのであろう。たしかに池田は、存在がコトバとしてみずからを顕現する瞬間のことを繰り返し語っている。そして若松のまなざしもまた、この一点に注がれているのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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