増谷文雄『阿含経典』

初期仏典である阿含経典を抄訳したもの。増谷文雄による「総論」が冒頭についていて、全体像が見渡せるのがよい。増谷は存在論について言う。

その第一は、存在をすべて「造られしもの」と考える型である。「はじめに神天地をつくりたまえり」というあの旧約の「創世記」にしるされる創造神話は、その代表的なものである。
その第二は、それを「有」、すなわち「あるもの」として考える型である。その考え方の典型的なものを、わたくしどもは、初期のギリシャ哲学者たちの思索において見出すことができる。・・・
そして、その第三は、それを「生成」、すなわち「なるもの」として考える型である。その時、その「生成」の裏側には、いうまでもなく、また「消滅」がある。「すべては流れる」という名文句をのこしたヘラクレイトスはその古典的代表者であった。・・・そして、いま釈尊がかの菩提樹下における思索もまた、その型に属するものであったことが知られるのである。(120頁)

分かりやすいまとめであり、思考のヒントになるだろう。第四の類型というものはないのだろうか?

ところで、経典には次のような文章がある。

「友ゴータマよ、では、一切は無であろうか」
「婆羅門よ、一切は無であるというのは、それもまた、世間においていうところである」
・・・・
婆羅門よ、わたしは、それらの極端をはなれて、中によって法を説くのである。(211頁)

仏教は無を説いたという理解を巷に聞くこともあるが、阿含経典のこの箇所はそれを極端として退けている。中の強調は、アリストテレス孔子にも通じるものであると言える。