『フーコー・コレクション3 言説・表象』

この巻も、松浦寿輝による解説が優れているので、引用する。

個人などというものが、はたしてあるのか。書物などというものが、はたしてあるのか。主題などというものが、はたしてあるのか。そして何よりも、作品などというものが、はたしてあるのか。・・・『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』や『資本論』を明確な輪郭と堅固な実体を持つ言説単位として読むには及ばない。ましてそれらを「無神論」なり「資本主義批判」なりといった硬直した主題枠の中に囲い込んで何かをわかったつもりになる必要などさらさらない。名前を持たない無数の言説断片たちのレギオンが絶えざる闘争と和解を繰り返す灰色の不確実の空間の中に、ひとたびすべてを返してしまうこと。そして、そこに斜めに走り抜けてゆく意味も方向も欠いた無数の逃走線の絡み合いを丁寧に解きほぐし、個人とも書物とも、作品とも主題とも無縁の非人称の力動システムが徐々に姿を現わしてくるさまを記述し尽くすこと。そうした試みにフーコーは、「思想史」からは断乎として身を引き離す「思考の考古学」の名を与えた。(448頁)

未来に向かって投企する人間主体の自由などもはや問題化されえない言説空間で、フーコーが視線を注ぐのは泡粒のように沸き立っては散ってゆくこれら非人称的な「言表」の予想しがたい戯れなのである。・・・その編成のプロセスを通じて出現する「言表」のシステムを「史料体」と呼ぶことを提案したいと論を進めるとき、・・・・みずからの「考古学」とはこの「史料体」の探査にほかならず、起源へと向けて時間軸を遡行してゆく復元の学ではないのだといっているのである。(452−453頁)

フーコーの考古学が答えようとするのは、それら「言表」のレギオンがいかなる力によって衝き動かされ、いかなる規則によって律せられ、いかなる様態において編成され、システムへと生成し遂げてゆくのかという問いに対してである。それら大小無数の出来事の波動は、最終的に、或る時代の知のありかたを特徴づける思考の枠組みとしての「エピステーメー」を構成するが、それは当然のように、静かな堆積作用によって形成される「知の地層」のイメージをはるかに逸脱する力動性を孕み、不安定に揺らぎつづけている。・・・・フーコーの「エピステーメー転換」の概念はときおりトマス・クーンの「パラダイム・シフト」のそれに比べられることがあるが、言表それ自体を出来事と捉えるこの視点に立つかぎり、フーコーの考古学がクーンの科学史の問題基制から一線を画すものであることは言うまでもない。・・・・クーンは、・・・・既成の鋳型に無理やり自然を押しこめてゆく「通常科学」が一方にあり、その機能が限界に達した時点で開始される「異常な」探求と、その結果として生じる「科学革命」が他方にあるというわけだが、こうした正常/異常の二元論ほどフーコーから遠いものはない。恒常態としての「正常」な観察や認識の働きに或るとき「異常」が出来し、かくして「革命」が惹起されるといった事態がこれまでの科学史上に少なからず生起してきたことはなるほど事実だろう。だがフーコーにとって、歴史における不連続性とは、そうした「大偶発事」の一つであるばかりでなく、「言表という単純な一時のうちにすでに現前している」のであり、言い換えれば、「史料体」を構成する「言表」という「言表」は、どれもこれも、日常時と非常時を問わずことごとくextraordinaryなのである。(455−456頁)

クーンのパラダイムシフトと、フーコーエピステーメーの違いについての指摘は、重要なところだと思う。