山中浩司・額賀淑郎『遺伝子研究と社会−生命倫理の実証的アプローチ』昭和堂

遺伝子研究と社会

遺伝子研究と社会

2007年5月26日図書新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、遺伝子研究の社会的・倫理的な側面をめぐる、日本と米国の研究者たちのシンポジウムの記録である。グローバルな社会の中で遺伝子研究を進めるとはどういうことかについて、いままでの生命倫理のテキストにはなかったような刺激的な素材が、あちこちに散りばめられている。
 まず編者の額賀淑郎は、いま生命倫理に「実証的転回empirical turn in bioethics」が起きていると指摘する。すなわち、一九八〇年代に生命倫理学が成立するのであるが、そのときに主流だったのは、「権利」や「自律」などの概念を使って、様々な倫理的なジレンマを論理的に解きほぐすというようなアプローチであった。現在の日本で使われている生命倫理の教科書のほとんどは、このパラダイムである。
 ところが、やがてそのアプローチの限界性が自覚されるようになり、それとともに、もっと実証的なデータや語りに基づいた生命倫理研究が続出するようになったのである。そのプロセスにおいて、従来の哲学・倫理学からのアプローチと、社会科学や歴史学などからのアプローチが、互いに影響を与えあうようになってきた。本書もまた、この実証的転回をいかに見据えればよいかという問題意識によって支えられている。
 バーバラ・ケーニグは、いまや生命倫理において「文化的コンテクスト」というものを避けて通ることはできなくなったと強調する。文化を超越した普遍的な生命倫理が可能だと思っていた、八〇年代の米国の生命倫理学は、いま大きな壁にぶつかっているというのである。たとえば、出生前診断に関する日米の専門家の意識調査を行なうと、明らかな差が出てくる。「出生前診断は使用目的に関わらず提供されるべきである」という質問に対して、賛成する専門家の割合は、米国が四七%であるのに対して、日本は六%にすぎない。
 同一の職能集団を対象としているのにもかかわらず、これほどの違いが出るというのは普通はあり得ないことである。この背景には、「自己」とは何か、「自己決定」とは何か、「中絶」をどう考えるか、などについての文化的コンテクストが、両国のあいだで大きく異なっているということがある。そして、これまでの生命倫理学が想定してきたような普遍的な議論図式そのものを、これらの文化的コンテクストが上書きしてしまっているのである。ケーニグ自身は、この点について明確な答えを用意してはいないが、この論文は、レネー・フォックスによる初期の比較文化的アプローチが、もはや生命倫理において不可欠の手法になってきていることを伺わせる。
 さらに興味深いのは、ステファン・ヒルガートナーによる、ヒトゲノム計画の社会学的分析である。ヒルガートナーは、ヒトゲノム計画にかかわってきた研究者たちの行動に焦点を当て、彼らが実験室で、スポンサーの前で、そして学会でどのような営為を行ない、競争戦略を立て、研究の世界でのしあがっていこうとしたかを逐一調べあげたのである。そしてそれらの競争のうごめきの中から、ゲノム学の基礎的な知識が生まれ、その知識を共有してさらに先に進むために、研究者たちの織りなす社会そのものがダイナミックに再編成されるドラマが起きたというのである。生命倫理の問題を生み出すテクノロジーの、その発端部分がいかなるダイナミズムで動いているのかを探るという、きわめて興味深い研究である。
 デボラ・ヒースらによる「遺伝的市民とは何か」もまた、きわめて刺激的な論を展開している。われわれの身体が遺伝子的な身体であるということを自覚した市民は、フーコー的な「生権力」の網の目の中を動き回るエージェントとして、神出鬼没な集団的運動を巻き起こすことができる。彼らはこの主体のことを、「遺伝子的市民」と呼ぶ。たとえば表皮水疱症の患者たちは、その病名を診断されることによって医療化されていくのだが、同時に、そのアイデンティティを逆手にとって「遺伝子的市民」としての活動を開始することができるようになる。
 彼らは受け身の研究対象にとどまることなく、たとえば研究を媒介して不可避的にアメリ国防省と接続していくことになる。なぜなら、彼らの症状は、化学戦争の傷のモデルになるのであり、彼らに関する研究には国防省からの支援がつくからである。さらに、それが製品化されるときには、より大きな医療市場へと開かれてゆくだろう。彼らは、開かれた社会の中で、新たなポリティクスを創出していくことになるのである。
 以上のような多様な視点を、今後の生命倫理学が真に活かしていくことができれば、実証的転回は豊かな実りをこの分野にもたらすことになるはずであるという印象を、私は持つことができた。

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