ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

フーコーコレージュ・ド・フランスの講義録の一冊である。

こうしたすべての企図に賭けられていること、すなわち、狂気、病、非行性、セクシュアリティ、そして私が今お話ししているものに関するすべての企図に賭けられていること、それは、一連の実践と真理の体制との連結が、実際に現実のなかで存在していないものをしるしづけてそれを真と偽の分割に正当に従わせるようなものとしての知と権力の装置をどのようにして形成するのかを示すことです。現実としては存在しないもの、真と偽の正当な体制に属すようなかたちでは存在しないものを、現実のなかでしるしつづけて真と偽の正当な体制に従わせるという、この契機こそ、私が現在扱っている事柄において、政治と経済とから成る非対称的両極性の誕生をしるしづけるものです。政治と経済、これらは、存在する事物でもなければ、錯誤でもなく、錯覚でもなく、イデオロギーでもありません。それらは、存在しない何かであるけれども、しかし、真と偽とを分割する真理の体制に属するものとして現実のなかに組み入れられている何かなのです。(26頁)

存在しない何ものかが、真と偽を供給する真理の体制に組み込まれることによって現実となる、というようなことであるが、しゃべりなのでさほどクリアーではないように感じられる。

よい遺伝学的装備は−−つまり、低いリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備、自分自身や周囲の人々や社会にとって有害とはならない程度のリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備は、−−たしかに希少な何かとなり、それが希少な何かである限りにおいて、それは完全に、全く当然のこととして、経済的流通ないし経済学的計算の内部、つまり二者択一的選択の内部に入ることができる、と。(281頁)

フーコーは遺伝学について語っているが、これに関してはいまいち鋭くはない。この巻では、現実の現代政治についてたくさん語られているのがきっと読みどころで、関心ある人にとってはきっと面白いのだろうと思われる。