上田紀行『生きる意味』岩波新書

生きる意味 (岩波新書)

生きる意味 (岩波新書)

2005年2月6日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いまの社会を覆っているのは、なんとも言えない「息苦しさ」ではないのかと、私は常々考えてきた。世界有数の豊かな国になって、モノは溢れているのに、どうしてこんなに「生き生き」「はつらつ」としてないんだろうと。実際、何不自由ない家庭に生まれた若者が、引きこもりになってしまったり、リストカットを繰り返したりするというのは、少し前までの常識では考えられないことなのだ。
  ものが豊かになればなるほど、それに反比例して、こころはどんどん空虚になっていく。こういう現象がひたひたと進んでいるのが、いまの日本という社会である。
  上田紀行の新著『生きる意味』は、この問題を真正面から見据えた本である。上田は、『覚醒のネットワーク』などの仕事によって、「いのち」の消耗したこの社会を、その内面から立て直すための提言を一貫して行なってきた。この本は、彼の一連の仕事の集大成と言えるだろう。
  上田は、現代人がこころに大きな「空しさ」を抱えていると言う。それは、社会においても、学校においても、「この私が存在している必要はまったくないんじゃないか」「この私じゃなくて、ほかの誰かが代わりにいたとしても、社会や学校はまったく困らないんじゃないか」という意識が蔓延するようになったからだ。別にこの私じゃなくてもよかったんだ、という空しさのことを、上田は「かけがえのなさの喪失」と呼んでいる。
  なぜこんなふうになってしまったのかと言えば、もともと「他人からの目」をすごく気にする日本人が、「個」の確立を行なうことなしに、一気に効率性重視の近代化を進めてしまったところにあると上田は主張する。近代的な「個」が出来上がっていないのに、システム的な効率性ばかりを重視したため、「他人の目ばかりを気にする、一個の歯車」のような人間が大量生産されてしまったというのである。
  そういう社会では、「生きる意味」はつねにお上やメディアなどの外部から与えられるのだが、それに逆らって、かけがえのない一回限りの生を生きる自分自身の内側から、この私が生きる意味というものを「再創造」して、立ち上げてくることがいまこそ必要だと上田は説く。そのために必要なのは、真にこころから「ワクワク」すること、そして人生で必然的に出会う「苦悩」を前向きに通過することである。涙があるから花も咲くとは、そういう意味なのだと上田は言う。
  上田はこのようにして、生きる意味を喪失した現代人は、しかしながら、その乾ききった自分自身の人生のもっとも弱い部分を通過することによって、内側から力強く「生きる意味」を再創造してくることができるのだと結論するのである。
  上田のこの本を読んでみて、半世紀前に出版されたエーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』が、いかに現代の問題を根源的に捉えていたのかを再確認することができるように思う。フロムは、近代になって解放された人間たちは、しかし手にした自由に怖れをなし、すがるものを追い求めてみずから奴隷化していったと語った。これは、物質的豊かさを手にしたにもかかわらず、内面の生きる意味を喪失した二一世紀日本のわれわれの姿を先取りしたものと言えるだろう。
  私は現代日本のこのような状況を「無痛文明」として捉え、自分自身のアイデンティティを根本から問いなおすことを通じてのみ、そこからの脱出の道は開けると『無痛文明論』で論じた。
  不思議なことであるが、物質文明が引き起こした文明論的な問題と対決するためには、まずはみずからの内面の革新が必須だというのが、思想的な答えのようなのである。だが、単に内面への哲学的な沈潜にとどまっていてはならないはずだ。生きる意味を求める行為が、どうやって社会と実際につながれるのかを模索しないといけない。
  上田や私の思索は、まだまだ途上のものであるが、それをさらに批判し実践する作業が必要だ。

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