ウィトゲンシュタイン・哲学者の苦悶と向き合う(半歩遅れの読書術・1)

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

2008年3月2日日経新聞掲載

 本との出会いという言い方があるが、哲学書には、まさに「出会う」という感触がぴったりだ。哲学とは、私が存在しているのはなぜかとか、生きること死ぬことに意味があるのかといった問いを深めていくことだから、どうしても自分に合う合わないということがある。
 私が、自分にとってもっとも大切な哲学者であるウィトゲンシュタインに出会ったのも、そういう仕方であった。大学に入ったばかりのころに、図書館の哲学の棚で、法政大学出版局から出ていた『論理哲学論考』を、ふと手に取ったのだった。(現在は、岩波文庫版『論理哲学論考』が入手しやすい。以下の引用もこれによった)。
 まず目に飛び込んできたのは、訳者による情熱的な伝記だった。その迫力に押されて、ページを戻りながら本文を読んだ。
 「独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである」。「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」。「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」。これらの言葉は、稲妻のように私のハートを打ち抜いた。私はこの本を借り出して、繰り返し読んだ。それは若き日の私のバイブルとなったのである。
 この傲慢な哲学者は、この本の序文で、自分の思想が真理であることは決定的であり、問題は本書によって最終的に解決されたと記している。ウィトゲンシュタインは、私というものの謎、言語によって何が語られ何が語られないのかという謎を、論理学を使うことによって解明できたと宣言したのだった。ウィトゲンシュタイン二十九歳のときである。
 だが、話はそこで終わらない。その後、彼がどのような苦悶を重ねたかについては、『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(講談社)を読めばわかる。これは、彼が四〇代終わりに書いた日記を採録したものである。そこにあるのは、あの若き日のウィトゲンシュタインではない。
 彼は日記の中で、自分がいかに生きればよいのか、いかに死ねばよいのかを叫んでいる。「生きるとは表面で見えているよりずっと真剣なものだということである。生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ」。「お前の人生が最後に絶望へと切迫せぬように生きなければならない」。「お前がよく死ねる、そのように生きよ!」彼は六二歳で生を閉じた。
 ひとつの問いが解決したそのあとに、本物の問いが満を持して現われる。哲学者はそれと格闘しつつ生を終えるのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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