金井淑子編著『性/愛 岩波応用倫理学講義5』岩波書店

岩波 応用倫理学講義〈5〉性/愛

岩波 応用倫理学講義〈5〉性/愛

2005年2月11日週刊読書人掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本は、倫理学が「性」と「愛」の問題にどのように取り組めばよいのかを、おもにフェミニズムとの関係から探求したものだ。講壇倫理学は、伝統的に、「性」の問題をきわめて不得意としてきた。「セックス」ということばが倫理学の中で使われることは稀だったし、もし言及されたとしても結局のところは「相互に尊敬を払う愛の共同体」とかいう空疎な結論に至るのがオチだった。
  しかしながら、フェミニズム思想、ポストコロニアル思想の大波によって、「倫理」を語る基盤自体が周到に「ジェンダー化」されてしまっていることが、明らかになってきた。本書の編集者である金井淑子の問題意識は切々と伝わってくる。と同時に、巻末に置かれた座談会では、竹村和子が、「倫理」を語ろうとする者への違和感を繰り返し表明しており、それに充分に応対するだけの言葉を現在の倫理学が持ち得ていないことが、はからずも明らかになっていて面白い。
  本書の総論部分で、金井淑子はいくつかの重要な論点を提示している。まず金井は、セックスワークをしたいと言うゼミ生に対して、「あなたの決めたことならいいではないか」と言えなかったという例を出してくる。つまり、一般論としては「あなたの自己決定なら」と言えてしまうのに、なぜ自分のゼミ生の選択に対しては「やめておくべき」というおせっかいな感情を持ってしまったのか、というのだ。
  このことから金井は、誰しもが自分の中に「リベラリズム倫理」と「パターナリズム倫理」の両方を内在していると結論する。そしてこのような視点から、セックスと関係性の問題に切り込んでいこうとするのである。
  その結果見えてくるのが、従来とは異なった奇妙な「ねじれ」の存在である。たとえば、ポルノ規制の問題に関しては、もやは「保守派」対「進歩派」という二分法は通用しない。なぜなら、実際にあるのは、ポルノ反対を主張する「保守派」+「フェミニスト性暴力反対派」と、ポルノの自由を求める「個人のセクシュアリティ擁護派」、という対立だからである。同じような図式は、子どもの性的自己決定権の場合でも出てきてしまう。
  金井は述べていないが、似たようなねじれは、実は、臓器移植やクローン技術などの生命倫理の領域でも、同じように生じてきているのである。これらの点を考えると、いまや倫理の問題の最前線の地図は、大きく塗り替えられ始めていると考えざるをえない。その点をビビッドに感じ取ることができるのが本書のすぐれた点であろう。
  セックスワークに関しては、内田樹が、身体には固有の尊厳が備わっており、換金されたり道具化されることによって侵され、汚されると主張している。内田はセックスワークの労働権を承認した上で、このように言うのだから、これは保守派の言説なのか、進歩派の言説なのか、もはや判別不能なのだ。ただし、内田の議論には「買う男」の視点が入っておらず、この分野への男性学の取り組みが切に望まれる。
  男性学からのアプローチとしては、沼崎一郎が、ドメスティック・バイオレンスに支配された「制縛圏」が、意外なことに、優しさに満ちた「親密圏」に表面上酷似してしまうことを指摘している。われわれは、こういうところに、構造化された暴力の根深さを見ることができる。沼崎はケアの営みに、この構造からの脱出口を見出そうとしていて興味深い。
  細谷実は、美醜の問題を倫理学は正面から扱うべきであると主張する。「ブサイクなために生きる希望を失った」という声を引用しながら、この問題を議論するための手がかりを模索している。
  倫理学は、これらの挑戦を受けて立てるのだろうか。まだまだ混沌としているが、混沌の中にこそ将来の革新が潜んでいると信じてみるべきだろう。

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