マイケル・サンデル「公共哲学」

2011年8月28日日経新聞掲載

 公共哲学とは、私たちの社会をどのような理念とルールによって組み立てていけばよいのかを、立ち止まってじっくりと掘り下げる学問のことだ。この本は、ハーバード大学のサンデル教授が、この問題に関心のある一般読者を対象にまとめあげたエッセイ集である。クリアーな思考によって、現代の米国を中心とした政治哲学の根本問題が整理され、ひとつの方向性が提示されている。
 サンデルによれば、米国の公共哲学は、リベラル派と共和主義という二つの立場のあいだを揺れ動きながら形成されてきた。
リベラル派は、独立した個人の自由に重きを置く。自分の人生の目標はそれぞれの個人が自由に設定すればよいのであり、他人がとやかく言うべきものではない。そのような個人主義を保障するためにも、国家が権利や自由について公正な枠組みをしっかりと作り上げるべきであるとする。
 これに対して共和主義は、人間は歴史や地域の共同体から切り離された「負荷なき自己」ではないと主張する。人間は、家族の中での自分とか、コミュニティの共同生活への参加者としての自分とかをイメージすることなしには、自分自身を思い描くことすらできないのであり、その意味で、国民が共有すべき市民道徳を涵養することこそが大事であるとする。
 これに対してリベラル派は、そんなことをしたら特定の伝統に頼る全体主義に陥ってしまうと批判するが、サンデルは共和主義の肩を持って、全体主義はむしろ、個人がバラバラになって社会の中での居場所を失い、公共生活が衰退するときに生じるのであって、リベラル派のほうが危険なのだと挑発する。
 話題になった『これからの「正義」の話をしよう』をより良く理解するためのサブテキストとしてもお薦めだ。
 師ジョン・ロールズへの渾身の批判が最後に収められているが、これを読むと、サンデルがいかにロールズから多くを得ているかを知ることができる。サンデルはロールズを敬愛しつつ、その枠を内部から突破しようとしたことがよく分かって感動的だ。

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追記(9月4日改訂):
ウェブ・ツイッター上で、「師ジョン・ロールズ」というところに引っかかって、サンデルの先生はロールズじゃないだろう、というふうに言っている方々がいる。もちろんサンデルの指導教員がロールズではないことは当たり前で、本書にもそう書かれている。ある方から「「師」と書けばよかった」との指摘があったが、それはたしかにその通りだと思った。私の書き方が舌足らずだったのだろう。

本書の中で、サンデル自身が、自分はオックスフォードで博士論文を書いてそのときのテーマがロールズ「正義論」だったと書いており、ロールズは指導教員ではないことは明らかである。だが博士論文が「正義論」だったということから、すでに思想的な師の位置をロールズが占めていたことは伺える。哲学の場合、自分の対決する思想家が、結果的に自分の内面の師匠になってしまうことはよくあることで、サンデルの場合もそうだったのだろうというのが私の読みなのである。サンデルの「師」(のひとり)がロールズであることは間違いない。サンデルは、本書で、ロールズがあったからこそいま自分がいるということを繰り返し書いている。

本書の、ロールズへの追悼文の最後、サンデルがハーバードに着任してすぐに受けたロールズからサンデルへの最初の電話について「「ジョン・ロールズです。R−A−W−L−S」まるで、神がみずから電話で私を昼食に誘い、誰だかわからないと困るからと、名前の綴りまで説明してくれたかのようだった」(371頁)とサンデルが書いているところを読むに、ここにあるのは心の師を超えて、もう愛なのではないかと思うほどだ。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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