射精の倫理学・膣内射精が暴力だとしたら・・

関西倫理学会の発刊する『倫理学研究』誌に、「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」という論文を書いた。全文は上のリンクからどうぞ。

射精暴力論は、沼崎一郎が開拓した領域である。沼崎は論文の中で私の以前の論文を批判している。それを引き受けて、さらに展開する論文をようやく書くことができた。射精の倫理学男性学というのは、日本の男性学のオリジナルな議論なのではないかと思われる。ぜひ諸氏からの意見をお聞きしてみたい。以下、論文から抜粋。

まず、強制性を伴うと思われる膣内射精関連行為を以下の三つに分ける。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。法律上これは強姦・レイプと呼ばれる。(法律上は挿入によって姦淫は成立し、射精の有無は問われない)。

(2)「強制膣内射精」・・・これは、女性の意に反して、男性が女性の膣内で強制的に射精をすることである。コンドームやピルなどの避妊措置をしていようがいまいが、射精行為が女性の意に反しているならば、それは強制膣内射精である。

(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」・・・これは、女性の意に【27】反して、望まない妊娠が起きたときに、その直接原因となった膣内射精のことを指す。膣内射精を許しても妊娠しないだろうと女性は思っていたが、妊娠してしまったという場合でも、その妊娠が女性の意に反していたならば、それは強制妊娠であり、それの原因となった膣内射精は、強制妊娠を導いた膣内射精であることになる。
(27〜28頁)

「強制妊娠を導いた膣内射精」とは、たとえば、

 妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。
(31頁)

このことのひとつの帰結は、

それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。
(31頁)

ということになる。

射精の暴力性ということに関しては、実は、多くの男性たちは心の底で薄々気がついていることであろう。しかし、その実体が何なのか、あえて考えないようにしてきたのではないか。たとえ「傷つけたい」という顕在意識がなかったとしても、単に射精をするだけのことが、潜在的に性暴力となってしまい、いつでも事後的に性暴力として構築されるということは、男性にとって何を意味するのか。

この論文で書ききれなかった点については、さらに別の場所で続けて考えていこうと思っている。