秋葉原事件と「男性性」

今日、大阪京都を往復する時間を利用して、杉田俊介『無能力批評』を読み終えた。この本は、たぶん、とても読者を選ぶ本だと思う。が、私の本年度前半期のベストブックであった。

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

いいたいことはたくさんあるが、とりあえず、この本でもっとも引き込まれたのは、最終章あたりの「「男性弱者」と内なるモテ幻想」という章だった。タイトル見ただけで、分かる人は内容が分かるかとも思うが、この章における杉田の、男性性と暴力性と非モテについての考察は豊穣である。そのうえでいきなり言いたいことを言うと、杉田は、今回の秋葉原事件について書くべきではないか。この章を読みながら私は秋葉原事件のことをずっと考えていた。この章は、あの事件の予期に満ちているのではないか。もちろん私は私で考えたいと思うが、杉田のほうが私より近くにいるのではないかと思わされた。

ということを帰ったらブログに書こうと思っていたら、font-daさんが一瞬早く書いていた

そこでも触れられているが、もし容疑者がモテない恨みを晴らすだけなら、その刃は渋谷とか池袋とかの女子に向けられただろう。あるいは秋葉原を歩いているメイドたちに向けられただろう。あるいはイケメン男子やナンパ師たちに向けられただろう。だが、実際には、殺され傷つけられたのはほとんど「ふつうの男性」であった。容疑者は頭が真っ白になっていたらしいから、その行動は彼の無意識が出ていることであろう。容疑者は、非モテの何かを晴らすために、「秋葉のふつうの男をねらって」刺したのではないか。秋葉原を歩いているのはほとんどが男だから、確率の問題、という可能性はもちろんある。だとしてもなぜ男ばっかりの秋葉原をねらったのかという問いは厳然と残る。(私は容疑者の言葉「誰でも良かった」はウソじゃないのか、ということを言っていることになる)。

朝日新聞」で某評論家がエッセイを書いていたが、あれではダメだろう。新聞メディアはこの問題をたぶん扱えない。扱えるのはネットだけだ(たぶん)。