須原一秀『自死という生き方』およびコメント

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

自死という生き方―覚悟して逝った哲学者

以下の書評を共同通信配信で書いて、地方紙に掲載された。この本の内容が傑作というわけではないし、内容に全面賛同するわけでもない(葉隠称揚など)が、著者が自殺を肯定し、本書を書き、それを実践して自死したという事実そのものが突きつける衝撃を私なりに受け止め、読者に紹介したいと思った。

こういう内容なので、すでに各紙に書評が出たりコメントが出たりして、話題になっているのだと思っていた。新聞広告も何度が出ていた。昨日、共同通信の担当者から掲載誌が送られてきたのだが、担当者が言うには、読売、朝日など全国紙やブロック紙には、本書の書評はまったく掲載されず、新聞に載った書評は私の書いた以下の書評一本のみであったとのことだった。新聞書評がここまで出ないというのは、本書の話題性から言って、書評のプロの私としても考えにくい事態だ。書評に書いたように、「黙殺」された感がある。

このことが、私にはもっとも衝撃的だった。いつのまにこの国のマスメディアは、自殺について肯定的に語ることをここまで隠蔽する体質になってしまったのだろうか。私自身は自殺を全面肯定していない。だが肯定する場面があり得る(末期状態でなくても)と考えている(拙論「生命学とは何か」参照)。そういうことをも、真綿を絞めるように語ることができなくなる日が来るのだろうか。

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2008年2月17日以降共同通信配信(高知新聞など)

 これは真の論争の書だ。自殺について考察した本だが、社会思想研究家だった著者の須原さんは、人生を肯定したうえでの明るい自死は望ましいものであると本書で結論づけたのちに、二〇〇六年四月、身体も精神も健康なままで実際に自死した。六十五歳であった。
 自死の直前まで書きつづられた本書の内容は力強く、自分の哲学をそのまま実行し得た者だけがもつすがすがしさを湛えている。いまの風潮を考えれば、この本は社会的には丁重に黙殺されるかもしれないが、しかし人間の生と死に関心をもつ者はぜひ読んでおくべきであろう。
 人生で誰でも経験できるような「幸せの極み」を幾度か体験したがゆえに、「自分は確かに生きた」と日々身体で納得しており、いま死んだとしてもなんの後悔もなく死ねると確信している人が、実際に自死すること。須原さんは、そのような死に方のことを、絶望の自殺と区別して、「自決」と呼んで、擁護しようとしている。
 須原さんは、自決を前にした自分自身の気持ちを点検して、人生に対する未練も、死に対する恐怖も、おのずと消滅していって、気にならなくなったという。自決する人間の精神は、まったく暗いものではない。なぜなら、「死ぬべきときには死ねる」という確信があれば、気持ちに雄大さと明るさが備わってくるからである。
 「そこまでの確信があるのならば、別に自決しなくても、最期まで生きればいいではないか」という反論に対して、須原さんは、痰で喉を詰まらせて苦しみのうちに窒息死するというような死の迎え方よりも、チャンスが到来したときにみずから間髪を入れずに自決するほうが望ましいのだと主張する。
須原さんが念頭においているのは、人生の大半を経験し終えた老年者の自決である。自決の仲間作りも提唱している。ここまで確信に満ちた自決の実行者を、我々は正しく批判できるのか。本書は現代人の喉に突きつけられた刃である。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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