フリーターズフリー、膣内射精論

フリーターズフリー』第2号が刊行された。私も一本書いているので(「「モテないという意識」を哲学する」)、雑誌を送っていただいた。雑誌全体をパラパラと読んでみたが、非常に力の入った内容である。この調子で継続されていけば、重要な場になりそうな予感がする。

ところで、記事中に、私の膣内射精論への言及が2カ所ほどあった。その取り上げられ方に著者として違和感があるので、いちおう指摘しておきたい。

杉田 ・・(中略)・・。たとえば哲学者の森岡正博さんは、「膣内射精そのものが男性の性暴力でありうる」と言う。そして。最後の結論では、男性の性暴力を回避するために、女性の精子バンク+人工授精の利用はやむをえないだろう、とまで言う。

大澤 それは間違っていると思うけどね。

生田 そういう居直りと自己否定は裏表でしょう。どっちも自分だけで考えている。
(同誌、37頁)

杉田の要約はこの箇所に限っていえば不適切である。森岡は「利用はやむをえないだろう」とは言っていない。該当部分を以下に転写する。

 ところで、人間がこのような原罪を背負わずに生まれてくることのできる方法がある。それは、女性が、みずからの意志によって精子をバンク等で入手し、みずからに人工授精するやり方である。この場合、みずからの意志でもって医師に膣内への精子の挿入を依頼するわけであるから、受胎に関する自己責任が貫徹されており、そこに性暴力が入り込む余地はない。医師の関与が性暴力を彷彿とさせるというのであれば、自己注入が可能な器具の開発を待てばよい。その結果、膣内射精に関する性暴力の可能性は回避されるし、生まれてきた子どもには、もはや性暴力の影はつきまとっていないと言える。精子バンク等を利用する女性に対しては、とかく否定的な眼差しが注がれがちだが、膣内射精に関する性暴力の回避という視点からすれば、これほど清潔な手法はないと思われる。
http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm

森岡は、「性暴力の回避という視点からすれば、これほど清潔な手法はない」と言うにとどめており、けっして「利用はやむをえないだろう」とは言っていない。逆に、「しかしながらその<清潔な>手法には、さらに大きな問題が潜んでいると言えるのだ(無痛文明的な)」というような文章すら接続可能である。杉田の要約が勇み足であるので、それを受けた大澤、生田の反応も的外れ感がある。

とはいえ、私としては、この文章中の「清潔」という一語にある種の反語を感じ取ってもらえなかった(らしい)という点に、自分の文章力の至らなさを見る。(たとえば清潔―衛生―民族衛生学という連想とかの可能性など)。この文章を書籍に収めるときには、この部分は意を尽くして書き改めようと思う。

同誌中の、杉田の「性暴力についてのノート」は、たいへん興味深い。これはさらに展開されて、一冊の本になってほしい。

とりあえず、書く場所がないのでブログにて書いておきます。