ヘリゲル・日本の弓術と西洋の誤解と創造(半歩遅れの読書術・2)

日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

2008年3月9日日経新聞掲載

 私が学生だったころ、大学の哲学・倫理学の授業には、さほど面白いものはなかった。ただひとつ、当時、哲学者の湯浅泰雄先生が非常勤講師で来られていて、その授業は目から鱗が落ちるようであった。
 湯浅先生は、中国医学の「気」の考え方を紹介し、それが日本武術の身体の鍛錬の仕方にどのような影響を与えたのかについて講義をされたのであった。武術家のビデオを観ながら、身体論の可能性を議論したのは忘れられない。そのときに湯浅先生が示されたのが、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』(岩波文庫)という本である。
 文庫版で七〇頁足らずの文章であるが、一読して、あまりの面白さに興奮した。どうして外国人が日本武術の本質をこんなにクリアーに掴めるのだろうと、若き日の私は驚いたのだった。
 ヘリゲルはドイツの哲学者である。大正一三年に、東北帝国大学で西洋哲学を教えるために来日し、そのかたわら、弓術の師範である阿波研造に師事した。最初は的に矢を当てることに苦心していたが、やがて、弓の道の本質は「禅」であると気付くようになる。
 すなわち、弓を引く構えをしたときに、射手は自分の意識を水面下に沈める準備が整う。そして弓を引き絞るにつれて、意識はだんだんと無に近づき、「その後の一切は意識の彼方で行なわれる」。そして、矢が放たれたその瞬間に、射手は、「不意に、我に復(かえ)る」。そのとき、見慣れた風景がふたたび目の前に広がってくる。
 そこには、もはや、私が矢を的に当てるということは起きていない。矢を当てようとする私も消えているし、狙われていたはずの的もまた消えている。射る者も射られる的も消え失せた世界のなかで、矢が的に当たるという出来事が生起する。これが弓道の本質だとヘリゲルは言うのである。
 もちろん、これはドイツ人の哲学者による、誤解を含んだ一方的な解釈であって、この本はその点から批判されている。しかしながら、そのような自信満々の「誤解」によって、結果的に、ヘリゲルは、「禅」というものの、もっとも現代的な解釈の仕方を創造し得たとも言えるのである。
 似たようなことは、名著の誉れ高い新渡戸稲造の『武士道』(岩波文庫)においても見られるだろう。西洋の教養で武士道の本質を切り取ったこの本は、観念的誤解に満ちていると批判されるが、しかしそれによってしか現代人の魂に届かなかった何ものかが、たしかにこの本には存在しているとしか言いようがないのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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