カス、ハーバーマス・生命倫理の哲学(半歩遅れの読書術・3)

治療を超えて―バイオテクノロジーと幸福の追求 大統領生命倫理評議会報告書

治療を超えて―バイオテクノロジーと幸福の追求 大統領生命倫理評議会報告書

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

2008年3月16日日経新聞掲載

 インターネット時代になって、本との出会い方も徐々に変わってきた。その一例が、これから紹介する、レオン・カス編『治療を超えて』(青木書店)である。
 この本は、米国の生命倫理評議会が二〇〇三年にブッシュ大統領に提出したレポートを、全訳したものだ。オリジナルの英語版は、米国政府のサイトから無料で全文がダウンロードできる。と同時に、まったく同じ英語版が、民間の出版社からも刊行されている。
 無料で手に入るのなら、本のほうは売れないだろうと思われるかもしれないが、私は英語版をダウンロードしたあとで、英語のペーパーバックも購入した。大事な本だから、書籍のかたちで持っておきたいと思ったのである。〇五年に出た日本語訳も入手した。ネット時代になっても、良い本は売れていくのである。
 さて、この本は、生命テクノロジーがどんどん進んでいっても、必ずしも人間は幸福にはならないと訴える。そんな内容のレポートが米国大統領に提出されたのだから、生命倫理の世界に大きな衝撃を与えた。
 それまでの米国では、研究の自由を最大限に認めて、できるかぎり自由な生命科学研究を推進するべきだという考え方が主流であった。ところが、このレポートは、人間を改造することよりも、人間に与えられたものを大切に使い切っていくことのほうが、よっぽど人間的なのだと主張して、生命科学研究に水を差したのである。
 この主張の裏側には、米国のキリスト教保守派のイデオロギーがある。興味深いのは、その翻訳が、日本では左翼系の老舗出版社から出ているということだ。このねじれはたいへん面白い。米国の学会で私がこのことをしゃべったときには、会場から驚きの声が上がった。
 話を戻せば、ドイツでもまた、重鎮哲学者のハーバーマスが、『人間の将来とバイオエシックス』(法政大学出版局)を刊行して、生命テクノロジーに対する批判を行なっている。それらの技術は、一見、人間に寄与するように見えて、実は人間から、道徳的世界の基盤となるものを奪うような性質をもったものかもしれないと言うのである。
 二一世紀に入って、生命倫理の哲学は、たいへん活況を呈しはじめている。日本でも、加藤秀一『<個>からはじめる生命論』(NHKブックス)のような好著が、昨年出版された。
 生命テクノロジーは、人間に明るい未来を開くものなのか、それともその先にあるのは悪夢なのか。いま生命の哲学が面白くなってきている。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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