加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

2007年10月28日熊本日々新聞掲載

 もしあなたに、生まれつき重い障害があったとしたら、あなたは「こんなことなら生まれないほうがよかった」と思うだろうか。世の中には、実際にそのように考えて、出産に立ち会った医師を裁判で訴える人たちがいる。彼らの言い分は、次のようなものだ。
 もし医師が、妊娠中の親に、胎児に障害があることをきちんと伝えていたとしたら、親はきっと中絶することを選んだことだろう。すると、自分は中絶されてしまうから、この世に生まれることはなかったはずだ。障害をもって、こうやって苦しむこともなかったはずだ。障害をもって生まれることは、自分にとって苦痛であり、損害である。だから、自分は、親にきちんと情報提供しなかった医師を損害賠償で訴える、というのである。
 これを、「不当な出生(ロングフル・ライフ)」訴訟という。このような訴訟は、実際に、米国や、フランスや、英国でなされており、訴えられた損害を認める判決も一部では出ている。医事法や生命倫理学の世界では、こういう理屈を認めていいものかどうかをめぐって、専門家たちが頭を悩ませてきた。
 加藤秀一さんは、本書で、この「生まれない方がよかった」という思想を、いったいどのように考えていけばよいのかについて、あらゆる角度から検討した。「生まれ出ること」をめぐるこの哲学的な問いを、多彩な文献を手がかりにしながら読み解いていく加藤さんの試みは、現代の生命倫理学の最先端に位置する仕事だと言ってよいだろう。
 加藤さんは、「生まれない方がよかった」とは、そもそも何を意味しているのかを考える。たとえばそれは、「もう死んでしまったほうがいい」という自殺の思いと、どう違うのだろうか。自殺の場合は、自殺した本人は死んでしまうのだが、その人がこの世に存在したことの痕跡は、この社会のあちこちに残されたままだろうし、親しかった人たちの記憶にも残されることだろう。
 ところが、「生まれない方がよかった」という思いは、それとはまったく違ったことを希求している。すなわち、この世に私が生まれてこなかったほうがよかったというわけであるから、この自分の存在だけではなく、この自分が存在したという一切の痕跡もまた、この世から完璧に消え失せてほしい、と願っているのである。
 自分がいままで生きたということ、そしてそれが世界や他人に影響を与えたということ、そのすべての痕跡を、まっさらの白紙にもどしたいということなのだ。加藤さんは、ここに、考えられるかぎり最大の「絶望の深さ」を感じるという。
 では、加藤さんは、この絶望に満ちた「生まれない方がよかった」という思想を全否定して、「生まれてきてよかった」とみんなが肯定的できるような生命思想を積極的に作り上げていこうとするのかと言えば、ぜんぜんそうではないのである。
 加藤さんによれば、「生まれたこと」それ自体は、よいことでも悪いことでもない。「生まれない方がよかった」と陰鬱につぶやくことも、「生まれてきてよかった」と明るく歌うことも、どちらも無意味である、と加藤さんは言う。人はもうすでに生まれてきてしまっているのだから、それを、生まれる前と比較してみても、まったく意味がないからである。それなのに、そういう比較をして、いま存在する生命を賛美する人たちがたくさんいるが、それは欺瞞以外の何ものでもないと言うのである。
 加藤さんの批判は、さらに、すべての問題を「生命」という言葉に還元して考えようとする発想にまで及び、それを「生命のフェティシズム」として却下する。
 いま必要なのは、「生命」という言葉で思考を埋め尽くすことではなく、私の前で現に生きている具体的な人間を、単なる生命ではない「誰か」として捉え直し、その「誰か」の存在を守ることを倫理の核心とみなすような倫理学を発想していくことではないのか、と言うのである。
 本書タイトルの「〈個〉からはじめる生命論」とは、そのことを指している。荒削りながらも、強い主張が秘められた好著である。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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