『医療倫理』『日本の生命倫理』『入門・医療倫理2』

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

医療倫理 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

日本の生命倫理―回顧と展望 (熊本大学生命倫理論集)

日本の生命倫理―回顧と展望 (熊本大学生命倫理論集)

入門・医療倫理 (2)

入門・医療倫理 (2)

2007年6月10日日経新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 日本に「生命倫理」という言葉が生まれてから、もう二〇年になろうとしている。一般語として、もう定着したと考えてよいだろう。この二〇年のあいだに、様々なことがあった。男女産み分けから始まって、脳死臓器移植の大問題、安楽死尊厳死、そしてクローン技術に至るまで。
 これらの難問を考えるときに、日本の学者たちは、アメリカ合衆国での議論をつねに参照してきた。「アメリカではこうだが、日本ではこうだ」式の言い方は、この分野での常套句である。もちろん、先端医療がもっとも進んでいるのは米国であるから、そこでの議論を参考にするのは、間違ってはいない。しかし、生命にかかわる「倫理」や「感覚」の問題までをも、「アメリカっぽく」捉えようとしてもいいのかどうか、というのがこの二〇年のあいだ、多くの学者や活動家を悩ましてきた難問だったのである。
 たとえば、トニー・ホープの『医療倫理』を見てみよう。著者は英国人なので、ここで描かれているのは「英語圏」の倫理学ということになるが、それは米国の生命倫理学と大差ない。彼はこういう議論をする。
 暴走列車が線路を走っていて止められない。線路の先には、五人の人間が縛りつけられている。そのままにしておくと五人は轢かれて死ぬ。あなたはその直前で線路を切り替えることができる。しかし切り替えられた先には、別の一人の人間が縛りつけられていて、その人が死ぬ。あなたは線路を切り替えるべきか否か。
 もし切り替えるべきだとするならば、(とホープはいきなり別の例を出してくるのだが)、あなたは、健康な人間を一人殺して臓器を取り出し、五人の重症臓器不全の患者の命を救うこともまた認めなければならないはずだ、というのである。
 日本の生命倫理学のテキストで、こういう例を議論の中心に据えるものは、ほとんどない。良くも悪くも、日本の生命倫理学は、この種の抽象論を避け、そのかわりに、臨床の現場で起きる具体的な問題にどう対処していくのか、という点に集中してきた。米国では、このような具体的アプローチを「臨床倫理」と呼ぶが、日本でもっとも発達したのは日本的な臨床倫理であったと言えるだろう。
 その取り組みの歴史を回顧した重厚な論文集『日本の生命倫理:回顧と展望』は、この分野の成立にタッチした学者たちが、近過去を振り返って記録した第一級の資料集である。日本の医事法学からの流れ、七〇年代のウーマン・リブからの流れ、障害者自立運動からの流れ、それらが生命倫理という分野にどのような影響を及ぼしてきたかを、われわれはこの本を手がかりに検証することができる。
 しかし具体的な現場にばかり拘泥すると、全体像を理論的に俯瞰する視点を失うことになりかねない。赤林朗らによる『入門・医療倫理2』は、一転して、生命倫理の問題を扱うための「倫理学方法論」に正面から取り組んでおり、おそらく現時点での英米倫理学の最高の概説書となった。
 と同時に、そこで問われていない大問題があることもまた明瞭である。それは日本の生命倫理が具体的場面で訴えてきたところの、生と死の現場において人はいかに「生きる意味」を見出していけばいいのかという問題、そして、障害者、難病者、高齢者らの立場からいかにこの社会の「健康至上主義」を解体していけばよいのかという問題である。
 生命倫理は、宿命的に二つの課題を背負っている。現場に役立つ道具立てを提供すること、そして生命を見る新たな視点を生み出すことである。
 生きていくなかで、人々がふと考えてしまう、「よく生きるとは何か」「後悔なく死んでいくとはどのようなことか」という問いに、正面から答えることのできる学に成長すべきだ。

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