上川あや『変えてゆく勇気−「性同一性障害」の私から』岩波新書

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

変えてゆく勇気―「性同一性障害」の私から (岩波新書)

2007年3月18日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この本の著者である上川あやさんは、「性同一性障害」をもった世田谷区議会議員である。上川さんの場合、ものごころついたときから、自分の男の身体に大きな違和感を抱いていた。自分の心の性は女なのではないかと気づいたときに、上川さんの人生は変わりはじめる。
 当時の法律では、生まれたときに登録した戸籍の性別を、あとから変更することはできなかった。だから、たとえ女性としての心を持ち、女性らしくしているときがもっとも自己肯定でき、女性らしい外見をしていても、法律上は男性のままでいつづけなくてはならなかったのである。
 これでは、まともな社会生活を営むことすら難しい。たとえば、投票所の入場券には法律上の性別表記があるので、替え玉投票を疑われてしまう。役所でもトラブルが絶えないし、住民票の性別と実際の外見が異なるから、住む部屋を借りることもままならない。病院にかかることすら躊躇するという。
 ところが世間には、いまだに、「趣味で女装しているのだから仕方ないじゃないか」「たかがそれだけのことでどうして法律を変えないといけないのだ」という声も多いのである。上川さんはそういう世間の声に押しつぶされそうになりながら生きてきた。自分は自分の心を女であるとしか思えないし、女の姿をしているときがいちばん安らぎに包まれるのに、世間で生きていくときには男の肉体で、男の服を着て、男のふるまいや慣習を身につけていかなくてはならない。身体と心のあいだで引き裂かれるつらさを、世間の人々はなかなか分かってくれなかったのである。
 二〇〇三年、上川さんは一大決心をして、世田谷区議選に立候補した。そして、ストレートヘアに赤いスーツを着て街頭に立ち、「おはようございます。私の戸籍は男性です」と第一声をあげたのだった。最初は友人たちのスタッフしかいなかったのだが、選挙活動を続けるうちに、しだいに陰から応援してくれる人々も多くなり、ついに当選した。
 上川さんは、戸籍の性別を変更できるようにするために、仲間たちといっしょに、国会へと働きかけることにした。ちょうど国会では、性同一性障害者の性別変更を可能にする議員立法が準備されているところであった。旧守的な議員や、無知な議員も多くいたが、法案に関心を持つ議員はおおむね好意的であった。しかしここで、上川さんたちは大きな問題に直面することとなる。
 用意されていた法案には、「性同一性障害者に子どもがいないこと」という条件が付けられていたのである。これは当事者たちにとっては大問題だ。社会の中でいままで性同一性障害というものが認知されてこなかったわけだから、すでに結婚して子どもをもうけている当事者もたくさんいたからである。
 上川さんたちは決断を迫られた。「子どもがいないこと」という条件は呑めないとして理想論を貫くか、それとも法案成立を最優先にして妥協するのか。上川さんたちは、法案成立を優先した。苦渋の選択であった。そのかわりに、これら点を含めて三年後に法律を再度見直すという附則が、法律に書き込まれた。
 上川さんは、最初から政治家を目指していたわけではない。大学卒業後、男性あるいは女性として普通の会社に勤めていた一般人である。その上川さんは、しかし自分の中に存在する「小さな声」に誠実な人間だった。世間に押しつぶされてしまうような小さな声を、それでも勇気を出して、人々に伝えていこうとした。そのプロセスの中で、同じように声を上げにくい人々と出会い、彼らと共感的に触れあいながら、社会を変える営みへと一歩を踏み出していったのである。
 区議となった上川さんは、外国人への行政援助、オストメイト失語症会話パートナーなど、声になりにくい声を拾い上げる試みを続けている。ここにあるのは、国を憂うといったような大所高所の視線ではなく、むしろそのような視線によって見えなくされていってしまう人々の「生きづらさ」を、ていねいに拾いあげてこようとする姿勢である。ジェンダーに興味のある人だけではなく、生き方に迷っている若者にぜひ読んでほしい本だ。

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