金森修『遺伝子改造』勁草書房

遺伝子改造

遺伝子改造

2006年1月1日図書新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま世界の生命倫理の議論でもっともホットな話題となっているのは、人間の遺伝子改造をどこまで行なってよいのかという「増強(エンハンスメント)」の問題と、人間の脳にどこまで医療技術が介入してよいのかという「脳神経倫理(ニューロエシックス)」であろう。ともに、いままでならばSFのテーマでしかなかったわけだが、近年の先端技術の驚異的な発展によって、それらが実際に手の届くところまで来てしまったというわけなのである。
  たとえば、体外受精で得られた受精卵の遺伝子を操作することによって、生まれてくる赤ちゃんの髪の色、目の色、身長、IQ、記憶力、運動能力などを操作することができるようになるかもしれない。しかし、はたしてそんなことを親がしてしまっていいのだろうか? それは親による、子どもの人生それ自体の操作となってしまうのではないか? しかしながら、生まれてくる子どもに、可能な限りのよい条件を与えてやりたいと思うのは親の自然な気持ちではないのか。そして子どももまた、自分のためを思って能力を増強しておいてくれた親に感謝するのではないだろうか。だとしたら、いったいどこに問題があるのだろうか・・・。
  金森修の本書は、このような悩ましい倫理の問題に、この上ない繊細な分析のメスを加えたものである。科学史家らしく、このテーマに関連する専門文献を過不足なく読みこなしており、遺伝子改造の倫理に関するまさに決定版とみなしてよいだろう。日本でもこの分野に大きな興味が注がれるようになってきている。議論の整理のためにも、また海外の重要文献にアクセスするソースとしても、必備の一冊と言わなければならない。
  この問題に関して、先行した議論を行なってきたのはまたしても米国である。金森がクリアーに描いて見せたように、米国の議論は二一世紀に入っていくつかの大きな成果を上げ始めている。その一つとしてヴィクラーらの『偶然から選択へ』がある。これは、タイトルのとおり、米国の自由主義を基調としつつ、人間の遺伝子改造をできるだけ穏当に肯定していこうとする論陣を張ったものである。彼らは、背を高くしたり、美貌にしたりというような派手な改造に対しては慎重であるが、そのかわりに、老化の遅延、記憶力の増大など、誰が見ても悪いこととは思えないような改造(「汎用の善」)を推進しようというのである。
  これに対抗するような形で現われたのが、大統領生命倫理評議会による『治療を超えて』である。彼らは、老化の遅延などのような一見「善」のように見えるものであっても、それを追求することがほんとうに人間の幸福につながるのかと問う。そして人間は与えられたものを享受し、自分の限界を正しく味わうときにこそ幸福を得るのではないかと主張するのである。
  金森はこれら両陣営の考え方と、その周囲で跳梁跋扈する有象無象の言説群を、「中立な観察者」の視点から描写し尽くそうとする。では、金森自身の考え方はいったいどういうものなのだろうか。
  金森は、プロテスタント系の神学者ピータースの考え方に注目する。ピータースは、神の創造は現在でも生き生きと続いていると主張する。そして、人間は神の「共・創造者」なのであり、人間はこの意味で創造的であるように運命づけられているとする。この意味で、人間が人間を改造しようとするのもまたひとつの運命だというわけなのだ。
  金森も似たように考える。人間というのは、「たとえ一定のリスクがあったとしても自分の限界を突き破りたい」という「プロメテウス・コンプレックス」によって駆動されており、それは「人間の根源的な業、または性のようなもの」だと金森は言う。したがって、生殖系列の遺伝子改造を「絶対の悪と考えてはいけない」のであり、この点にこそ「哲学的開放」があるという。その結果、人体は、「われわれの文化的判断が作り出す「作品」」になる。もちろんその際には、子どもの自由、自律性、統合性という不可侵の倫理原則が必要だが、それはけっして技術を止めるためのものではない。いずれにせよわれわれは、自分自身でみずからの最深部を改変する(未曾有の)時代に突入する(しかない)のだと金森は言うのである。
  遺伝子改造にかんする金森のリベラリズム宣言とも読める本書だが、読み終えてみて、私は、まったく逆の立場からこの問題群を捉えてみたいと思った。すなわち、人間がみずからの目の前にあるものを「改造」せざるを得ない「運命」を刻印されているとして、はたしてその運命は人間を幸福にするのだろうかと問うてみたいのである。おわかりのように、これはコミュニタリアンである大統領評議会のスタンスと似通っている。
  実はこの問題意識こそ、私が『無痛文明論』でこだわり続けていたものなのだ。ひたすらに外界を改造し、それに飽きたらずみずからの身体や脳までも改造しようとする人間の運命は、金森やリベラリストたちが主張するほどの価値をもったものなのだろうか。私には、それは快を追い求めつつ、結局のところ深いよろこびを失っていくという逆説に満ちた、果てしなく暗い「宿命」なのではないかと思えてならないのである。
  金森もこの論点に気づいている。だからこそ、本書は将来書かれるはずの「人工性の哲学」によって乗り越えられなくてはならないと述べるのである。それを踏まえるとき、本書は人間・生命・人工性という大テーマに向かうための通過点として位置づけられることになるだろう。私はそれに対して、金森とは別方向から攻め込もうと考えている。読者もまた本書を咀嚼して議論に参加してほしい。

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