ウィトゲンシュタイン著『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

2005年12月18日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 ウィトゲンシュタインは、オーストリア生まれの哲学者で、二〇世紀の哲学に大きな足跡を残した、きわめて特異な人物である。まず、二〇代の終わりに、『論理哲学論考』という書物を著わして、自分は哲学の問題を最終的に解決したと宣言した。つまり、いままで哲学の難問だと思われていたものは、言葉を正しく使用しなかったがために生じてしまった偽の問題だと言うのだ。そして彼は、言葉によって「語れるもの」と、「語り得ぬもの」を区別し、「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない」と結論づけた。
  この「語り得ぬもの」とはいったい何なのか、彼は明確にしていない。それは「宗教」や「倫理」のことだと思われるが、ウィトゲンシュタインはそれらについて、まさに沈黙を貫いているように見える。いままで刊行されてきた著作集でも、倫理や宗教については断片的にしか述べられていなかった。
  ところがである。一九九三年に、ウィトゲンシュタインが親しい知人に預けていた、個人的な日記が「発見」されたのである。それはドイツ語で一九九七年に出版された。その邦訳が本書『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』だ。驚くべきことに、この中で、彼は新約聖書について、倫理について、自分の生き方について、溢れるばかりの情熱をもって語っている。そればかりではなく、宗教や倫理や生き方への熱い熱情が基盤となって、後期の「言語ゲーム」を中心とする新たな哲学が立ち上がってきたことが、この日記からありありと読み解けるのだ。
  この本の出版によって、いままでのウィトゲンシュタイン像は、大転換を迫られることになるだろう。これからのウィトゲンシュタイン研究は、彼の内面のドラマを抜きにしてはもう前に進まなくなると思われる。そのくらい破壊力の強い本なのである。この日記を書いていたとき、ウィトゲンシュタインは四一歳から四八歳だ。若気の至りで出版してしまった『論理哲学論考』への悔悟の念と、しかし自分の哲学はまちがってはいなかったという自負、そのあいだをただおろおろと右往左往する哲学者の内面が、はげしく綴られている。
  彼は自分の原稿をぜんぶ燃やしてしまうべきだという衝動に何度も駆られる。彼は言う。「あらゆる戦闘は自分自身との戦闘」である。「決して自分を欺こうとしないこと、これを我に堅く守らせよ」。「正しく生きるためには、私は自分に心地よい生き方とはまったく違ったように生きなければならないだろう」。「生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ」。これが二〇世紀を代表する論理哲学者の言葉なのか。
  彼が一貫してこだわっているのは、自分自身の「生き方」である。どのように生きればいいのか、それは、死ぬときに「あれさえやっていれば!」と後悔しないように生きることだ。「お前がよく死ねる、そのように生きよ!」本当の死とは、生から光の輝きが失われた状態で、生きたまま死んでしまうことである。そのようなことを刻みながら、ウィトゲンシュタイン新約聖書を読みふける。自分は病気だ、狂気だと叫びながら、聖書と対峙する。
  その苦しみの中から、ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものへの沈黙」ではなく、生を生きる者の「叫び」を発見していくのである。彼は言う。「痛い」という言葉は「痛みの叫びとしてでなければ何の意味ももたない」のである、と。言葉の意味はその使用であるという、「言語ゲーム」の哲学は、このような大転換から生み出されたのであった。「痛い」とは、「痛い」というふうに生きることであり、それを見たわれわれが「どうしたの?」と駆け寄ることであり、それらのすべてのプロセスが言葉の意味となってつながっていく。「言語ゲーム」という言葉はクールに聞こえるが、その背後には、「真実の生を生き切って死にたい」という、切羽詰まった叫びが押し込められていた。革命的な哲学の秘密が、この日記の中に脈打っているのである。

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