ベーコン『学問の進歩』シェリング『学問論』

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

岩波文庫の重版本。フランシス・ベーコンが1605年に書いた『The Advancement of Learning』の日本語訳で、この本は「英語で書かれた最初の哲学書といわれる」らしい。内容はと言えば、哲学概説で、新書本みたいな感じ。ベーコンはおしゃべりである。のちに書かれる主著ノヴム・オルガヌムへの序章のような感じなのだろう。再度品切れになる前に持っておいてよい本かもしれない。

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

こちらも岩波文庫の重版本。こちらは初版が1957年である。1802年イエナ大学における講義録。

それは真の観念的なもののみがそのまま媒介なしにまた真の実在的なものであり、そういう観念的なものの外には他のものは何も存在しないといういっそう高い前提なしには、一般的にもまた或る特殊な場合においても、考えられないのである。われわれはこういう本質的統一を哲学のうちにおいてさえも実際は証明することはできない。それはむしろ一切の学問が学問たるための通路なのだから。しかしそれなくしては、一般に学問はないということだけは証明されるし、またともかく学問たらんとする要求をもつすべてのものにおいては、本来この同一、言いかえれば観念的なものへの実在的なもののこういう全的な同化が・・・意図されるということは立証される。(16頁)

ドイツ観念論ですなあ。

『フーコー・コレクション3 言説・表象』

この巻も、松浦寿輝による解説が優れているので、引用する。

個人などというものが、はたしてあるのか。書物などというものが、はたしてあるのか。主題などというものが、はたしてあるのか。そして何よりも、作品などというものが、はたしてあるのか。・・・『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』や『資本論』を明確な輪郭と堅固な実体を持つ言説単位として読むには及ばない。ましてそれらを「無神論」なり「資本主義批判」なりといった硬直した主題枠の中に囲い込んで何かをわかったつもりになる必要などさらさらない。名前を持たない無数の言説断片たちのレギオンが絶えざる闘争と和解を繰り返す灰色の不確実の空間の中に、ひとたびすべてを返してしまうこと。そして、そこに斜めに走り抜けてゆく意味も方向も欠いた無数の逃走線の絡み合いを丁寧に解きほぐし、個人とも書物とも、作品とも主題とも無縁の非人称の力動システムが徐々に姿を現わしてくるさまを記述し尽くすこと。そうした試みにフーコーは、「思想史」からは断乎として身を引き離す「思考の考古学」の名を与えた。(448頁)

未来に向かって投企する人間主体の自由などもはや問題化されえない言説空間で、フーコーが視線を注ぐのは泡粒のように沸き立っては散ってゆくこれら非人称的な「言表」の予想しがたい戯れなのである。・・・その編成のプロセスを通じて出現する「言表」のシステムを「史料体」と呼ぶことを提案したいと論を進めるとき、・・・・みずからの「考古学」とはこの「史料体」の探査にほかならず、起源へと向けて時間軸を遡行してゆく復元の学ではないのだといっているのである。(452−453頁)

フーコーの考古学が答えようとするのは、それら「言表」のレギオンがいかなる力によって衝き動かされ、いかなる規則によって律せられ、いかなる様態において編成され、システムへと生成し遂げてゆくのかという問いに対してである。それら大小無数の出来事の波動は、最終的に、或る時代の知のありかたを特徴づける思考の枠組みとしての「エピステーメー」を構成するが、それは当然のように、静かな堆積作用によって形成される「知の地層」のイメージをはるかに逸脱する力動性を孕み、不安定に揺らぎつづけている。・・・・フーコーの「エピステーメー転換」の概念はときおりトマス・クーンの「パラダイム・シフト」のそれに比べられることがあるが、言表それ自体を出来事と捉えるこの視点に立つかぎり、フーコーの考古学がクーンの科学史の問題基制から一線を画すものであることは言うまでもない。・・・・クーンは、・・・・既成の鋳型に無理やり自然を押しこめてゆく「通常科学」が一方にあり、その機能が限界に達した時点で開始される「異常な」探求と、その結果として生じる「科学革命」が他方にあるというわけだが、こうした正常/異常の二元論ほどフーコーから遠いものはない。恒常態としての「正常」な観察や認識の働きに或るとき「異常」が出来し、かくして「革命」が惹起されるといった事態がこれまでの科学史上に少なからず生起してきたことはなるほど事実だろう。だがフーコーにとって、歴史における不連続性とは、そうした「大偶発事」の一つであるばかりでなく、「言表という単純な一時のうちにすでに現前している」のであり、言い換えれば、「史料体」を構成する「言表」という「言表」は、どれもこれも、日常時と非常時を問わずことごとくextraordinaryなのである。(455−456頁)

クーンのパラダイムシフトと、フーコーエピステーメーの違いについての指摘は、重要なところだと思う。

『<生命>とは何だろうか』岩崎秀雄

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

いまや人工的に細胞の中身を作ることができるような時代になっている。そのような時代において、生命とは何なのかを、学際的に捉えようとしている著者の書いた概観書である。とくにこの本では、生物学と美術(美学)の接点が大きく取り上げられており、非常に現代的な内容となっている。その名も「生命美学」というのであるが、カント美学を現代によみがえらせるかのようなその試みは成功するのだろうか。実際に、細胞をもちいた美術作品はかなり注目を浴びるようになっていて、そのインパクトをどう考えればいいかは今日的なテーマだろう。著者は2006年から「細胞を創る」という手弁当の学際研究会をはじめているとのことで、こういう形で始まるものは将来性があるように思う。

ひとつ思うのは、著者の言う「生命」に、「人間の生命」が、明示的な形では入っていないように思われる点である。これはすごく難しい問題で、たとえば哲学のジャンルである「生物学の哲学」には、「人間の生命」というものはそれ自体としてはテーマにはならない。(生物学の哲学ではハイデガー存在論は扱わない等)。生物学からのアプローチと、実存主義生の哲学的アプローチが、乖離しているのがこの分野での大問題である。それをつなげようとしたのがハンス・ヨーナスらであり、私たちはそれを念頭に置きながら「生命の哲学」というジャンルを構想しようとしている。しかしこの二つのアプローチをつなげていくのはすごく難しいという気がする。が、やらなければならない。

宮沢賢治・幸福目指す「決意表明」

『読売新聞』(大阪版 2013年2月7日 夕刊)でのインタビュー

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>。賢治は『農民芸術概論綱要』でそう記した。「これを真正面から受け取ると、私たちは幸せになってはいけないことになる」と森岡さんは話す。現代、地球の裏側の紛争や飢餓の情報がすぐ届く。大災害も絶えない。不慮の事故や病気、いじめもある。全人類が幸せになる日は来ないからだ。
 だから、賢治の言葉はみんなの幸福を目指す「決意表明」だと森岡さんはとらえる。「幸せでない人々から目をそらさずにかかわっていく。その条件で、人は幸せを感じてよいのだと僕は考えます」
 賢治は、この「決意」を実現に近づける道筋を書き残していないだろうか。森岡さんは、のちに著わされた『銀河鉄道の夜』に着目する。
 四つの原稿が残るこの未完作の第三次稿で、印象深い場面がある。星座巡り鉄道で、<ほんたうのさいはひは一体何だらう>と問う主人公ジョバンニ。やがて横にいたはずの親友カムパネルラが忽然と消え、不安と悲しみで泣き叫ぶ。すると、ある博士が現われて語る。<みんながカムパネルラだ><幸福をさがしにみんなと一しょに・・・行くがいい>
 「お前の出会う人はみんなカムパネルラなのだという。不思議な言葉です。ここでいうカムパネルラとは、”いま一番身近で大切な相手”のことではないか」と森岡さん。
 誰にとっても、人生のときどきで近しく大切な人がいる。まず目の前のその人を幸せにすればいい。もしみんながこの気持ちでいれば、幸せは世界に広がる。
 「普通の人が実践できる思想に賢治は達した。『農民芸術概論綱要』で提起した幸福の問題を解決していると思います」

いろいろ長くしゃべったのだが、ポイントを的確にまとめてくれた。細部ではいろいろ異論もでるだろうが、全体として、この路線のことが浮かび上がってくる。

『ニーチェ』中島義道

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

中島義道の新刊である。今度はニーチェを主題にしている。「ニーチェの言葉」みたいな本が一般受けしていることに中島は腹を立てている。

ニーチェの言葉から「人生の意味」を汲み取ることなどできない。それは、あまりにも異様であり、あまりにも「力」を必要とするからである。(5頁)

じゃあニーチェは無意味かというとそうではない。ニヒリズムの徹底によって次のような結論に至るからである。

私は世界のうち」で死ぬのではない(世界が私の「うち」で死ぬのではないように)。私は、世界に対立するいかなる視点も持たない存在へと反転するのだが、これは、私が「無」になるということであり、しかも世界に対立する「無」(それは「無」という名の「有」である)になることではない。私は世界と「一致」したままで無に至るのだ。そのとき、「無」を「無」とみなす視点さえ消失するのであり、しかもこれこそがまさに真実の姿であるのだから、そこに「ヤー(然り)!」という声が響き渡るのだ。こうしてニヒリズムは完成されるのである。(194頁)

全体としてニーチェを再読する際のよいヒントがいろいろ埋まっているように感じる。

『マンガで学ぶ生命倫理』児玉聡・なつたか

マンガで学ぶ生命倫理

マンガで学ぶ生命倫理

児玉聡が監修した、マンガによる生命倫理への入門書である。定価1000円だし、この分野の概観をざっと眺めたい人や、学生にとってはよい導入となると思う。全部で10章あり、生殖医療、インフォームドコンセント、中絶、エンハンスメント、終末期医療、生体臓器移植、クローン、ES細胞、永遠の命、脳死臓器移植、となっている。「エンハンスメント」「ES細胞・iPS細胞」「永遠の命」というテーマが入っているあたりが、21世紀的といえる。

表紙は制服ミニスカ女子高生が大きくフィーチャーされており、「もしドラ?」的効果を狙っているようにも見える。個人的にはいまいち感がただよう。

ミニストーリーと児玉による解説が交互に並んでいて、その内容はバランス取れているといえる。立場的には中立を守ったと書かれているが、脳死臓器移植の解説の末尾には、

今後も引き続き、よりよい移植医療のために、法制度の整備や脳死判定技術の向上、市民への啓発活動などの取り組みが必要とされるでしょう。(129頁)

と書かれており、これは脳死移植慎重派の私などからみればあきらかに脳死移植推進の立場であり、中立とは言えない。このあたりは、化学同人からの出版で医歯薬看護系大学等での教科書採用を期待しているという点からの配慮なのかもしれないし、医学部で長らく教員をしていた著者のスタンスなのかもしれないし、著者の個人的な価値表明なのかもしれない。

全体としては良い本である。

ミシェル・フーコー『知の考古学』

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学(新装版)

知の考古学(新装版)

下のものが「知の考古学」の旧版でながらくこれしかなかったが、今回、文庫で新訳が出た。旧版の訳者は中村雄二郎、新版は慎改康之である。中村訳のころから比べてずいぶんとフーコー研究も進み、資料の出版もなされ、フーコーの文脈が理解できるようになったから、新訳はうれしいところである。

本書では「考古学」という方法が、思想史に代わって強調される。

考古学が明らかにしようとするのは、諸言説のなかに隠されていたり表明されていたりする思考や表象やイメージやテーマや強迫観念ではなく、諸言説そのものであり、諸規則に従う実践としての諸言説そのものである。・・・

諸言説によって実現される諸規則の作用が他のいかなる作用にも還元不可能であるのはどうしてなのかを示すことであり、・・・・考古学は、言説の諸様態の差異をめぐる分析なのである。・・・

考古学は、人間が言説を発したまさにその瞬間に、人間によって思考されたり、望まれたり、指向されたり、感じ取られたり、欲望されたりしたかもしれないことを、復元しようとするものではない。・・・それは、起源の秘密そのものへの回帰ではない。そうではなくて、それは、対象としての言説のシステマティックな記述なのである。(263〜265頁)

この引用部分の前後全体を読むと、考古学およびディスクールというものをフーコーがどう捉えていたかがよく分かる。

フーコーの新訳としては、あと「狂気の歴史」と「監獄の誕生」をぜひ文庫でお願いしたいものである。


フーコーの論文講演などを集めたものだが、手元に置いておくと便利。小林康夫による解説が分かりやすい。

歴史家たちが考える歴史は、本質的には、人間が「為したもの」にある。・・・だが、フーコーが考えようとしていることは、そうした人間の行為がいったいどのような規定・条件づけに従っているか、ということなのである。・・・行為はかならずある種の場の規制にそって行なわれるが、しかし本質上、事前的であるこの場はかならずしも行為主体によってつねに明確に意識されているわけではない。・・・(429頁)

日本語で「知」と訳される「savoir」・・・の動詞は単に「知る」ことだけではなく、能力として「できる」ことを指し示す。・・・フーコーは、われわれの生、われわれの行為の可能性をあらかじめ書き込んでいるような歴史的な認識の条件付けや規制としての「知」を研究しようとしているのである。それは、それに従って社会的な制度が生み出されたり、また消えたりするような「知」なのであり、それ故にほとんど「権力」・・・と隣り合い、浸透しあっている「知」なのである。(430頁)

[フーコーは]むしろ中心性をその最大の特徴とする従来の権力観とはまったく異なる、分散マトリックス的な権力の考え方を導入していくのだが、その権力論とかれの実存的な政治参加はおそらく通底しており、支え合っているのだとしても、しかしかれはそれをそのまま「思想化」しはしなかったように思われる。むしろ「実存」は、フーコーにおいては、個々の主体の選択に委ねられ、任されていたようにわたしには思われるのだ。(433頁)