ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

フーコーコレージュ・ド・フランスの講義録の一冊である。

こうしたすべての企図に賭けられていること、すなわち、狂気、病、非行性、セクシュアリティ、そして私が今お話ししているものに関するすべての企図に賭けられていること、それは、一連の実践と真理の体制との連結が、実際に現実のなかで存在していないものをしるしづけてそれを真と偽の分割に正当に従わせるようなものとしての知と権力の装置をどのようにして形成するのかを示すことです。現実としては存在しないもの、真と偽の正当な体制に属すようなかたちでは存在しないものを、現実のなかでしるしつづけて真と偽の正当な体制に従わせるという、この契機こそ、私が現在扱っている事柄において、政治と経済とから成る非対称的両極性の誕生をしるしづけるものです。政治と経済、これらは、存在する事物でもなければ、錯誤でもなく、錯覚でもなく、イデオロギーでもありません。それらは、存在しない何かであるけれども、しかし、真と偽とを分割する真理の体制に属するものとして現実のなかに組み入れられている何かなのです。(26頁)

存在しない何ものかが、真と偽を供給する真理の体制に組み込まれることによって現実となる、というようなことであるが、しゃべりなのでさほどクリアーではないように感じられる。

よい遺伝学的装備は−−つまり、低いリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備、自分自身や周囲の人々や社会にとって有害とはならない程度のリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備は、−−たしかに希少な何かとなり、それが希少な何かである限りにおいて、それは完全に、全く当然のこととして、経済的流通ないし経済学的計算の内部、つまり二者択一的選択の内部に入ることができる、と。(281頁)

フーコーは遺伝学について語っているが、これに関してはいまいち鋭くはない。この巻では、現実の現代政治についてたくさん語られているのがきっと読みどころで、関心ある人にとってはきっと面白いのだろうと思われる。

増谷文雄『阿含経典』

初期仏典である阿含経典を抄訳したもの。増谷文雄による「総論」が冒頭についていて、全体像が見渡せるのがよい。増谷は存在論について言う。

その第一は、存在をすべて「造られしもの」と考える型である。「はじめに神天地をつくりたまえり」というあの旧約の「創世記」にしるされる創造神話は、その代表的なものである。
その第二は、それを「有」、すなわち「あるもの」として考える型である。その考え方の典型的なものを、わたくしどもは、初期のギリシャ哲学者たちの思索において見出すことができる。・・・
そして、その第三は、それを「生成」、すなわち「なるもの」として考える型である。その時、その「生成」の裏側には、いうまでもなく、また「消滅」がある。「すべては流れる」という名文句をのこしたヘラクレイトスはその古典的代表者であった。・・・そして、いま釈尊がかの菩提樹下における思索もまた、その型に属するものであったことが知られるのである。(120頁)

分かりやすいまとめであり、思考のヒントになるだろう。第四の類型というものはないのだろうか?

ところで、経典には次のような文章がある。

「友ゴータマよ、では、一切は無であろうか」
「婆羅門よ、一切は無であるというのは、それもまた、世間においていうところである」
・・・・
婆羅門よ、わたしは、それらの極端をはなれて、中によって法を説くのである。(211頁)

仏教は無を説いたという理解を巷に聞くこともあるが、阿含経典のこの箇所はそれを極端として退けている。中の強調は、アリストテレス孔子にも通じるものであると言える。

ミシェル・フーコー『主体の解釈学』

フーコーの講義録である。1982年の講義から:

セネカについて)人生をはっきりとした段階や生活様式に区切ったりせずに、一気に駆け抜けることだ。一気に駆け抜け、理想的な老いという理想的な地点にたどり着かなければならない。・・・それでは、老齢のゆえ、浪費された時間のゆえに急いでおこなわなければならない労苦とは何なのでしょうか。所有地から、所有財産から遠く離れたものに心を遣っていてはならない。近い所有地を気づかい、それにすべての注意を注がなければならない。この近い所有地とは私自身ではないだろうか。彼は言います。「精神全体が自分自身をきづかう」「自分自身にかかりきりになる」ことが必要である。・・・たとえば第17の書簡では「もし君が自分の魂animusを気づかおうと思うなら」という表現があります。遠い所有地ではなく、もっとも近い所有地の世話をしなければなりません。この近い所有地とは自分自身のことです。彼は言います。この逃げ去る動きにおいては、自分を観照することに目を向けるべきなのだ、と。「逃げ去る動き」とは賢者としての逃走や退却のことではなく、時間の流出のことです。人生の最後の地点に私たちを導くこの時間の運動において、私たちは視線を向け直し、みずからを観照の対象としなければなりません(306頁)

こういう講義を行なうための準備時間が十分に与えられ、こういう講義を集中して聞く聴衆にめぐまれたフーコーはなんと幸福だったことよ。この点はひたすらうらやましい。フーコー晩年は、こういう人生の哲学、そしてギリシア以来の汝自身を知れという命題、そしてそれが社会権力性へと織り込まれるというところから何かを開こうとしている。興味深い。

デカルトが思考したのは、世界において疑いうるものについてではありません。また、疑いえないものについてでもありません。これは普通の懐疑的な訓練にすぎないと言ってよいでしょう。デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置きますが、疑いうるもの、その存在を疑いうるものについて問いたずねることはありません。そしてデカルトは、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くのです。したがってこれは思考やその内容についての訓練ではありません。主体が思考によってある状況に身を置く訓練なのですここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があります。(406頁)

講義のよいところは、こういう思考の流れを記録できるところだろう。

体罰と倫理学 加藤尚武『子育ての倫理学』

体罰倫理学について倫理学者は論考を書くべきだ」とあるところで言ったら、この本を教えてもらった。加藤尚武ヘーゲル研究から応用倫理学に進んで倫理学界を引っ張った人で、この業界では大物である。私の先生筋にも当たる。

いずれにせよ正しい体罰の方法をガイドラインとしてまとめておく必要がある。(164頁)

というわけで、体罰は、正しい体罰である限り正当化されるという立場である。(ここでめまい感を感じる人もいることだろう)。

(1)年齢・・・体罰の必要で有効な年齢は、だいたい10歳から15歳である。15歳を過ぎたら・・・前提となる事実を指摘して命令する説得が主役となる。・・・だいたい10歳以前では、子どもが悪いことをしたときには、きびしく叱るだけで十分であり、体罰の必要はない。(164−165頁)

体罰の対象となる行為は、反復された意図的な悪行であり、自分で「悪い」と思っていながら、「どうせ処罰はされないだろう」と思ってする行為や、挑発的にわざと悪いことをするという態度の場合である。一回だけの悪行、過失、怠慢、不注意は体罰の対象にならない。(165頁)

・・・最初の行為に体罰を下すのは正しくない。一度厳しく禁止することを申し付けておいた行為について体罰が適用される。(166頁)

体罰は父親が行ない、母親はやや中立的な態度をとる。平手で頬を殴る。反抗的な態度を示す場合には、再度、殴る。突き倒すとか、跳ね腰で倒すとかの行為もありうるが、倒れたら起こす。絶対に蹴らない。危険であるだけでなく、足で苦痛を与えることは子どもの人格を傷つけるからである。(167頁)

体罰は倫理的に正しい行為であるが、それが濫用されると、自分の思い通りにならないときに人を殴るという最悪の形態になる。したがって、正義の怒りを抱くことのできる心情の純粋性とその怒りを客観的に正しく制御する自制心とが伴わないと、体罰は行なうことができない。(168頁)

加藤は、家庭での正しい体罰を推奨しているが、学校での体罰は基本禁じていることを付記しておきたい。

しかし、体罰は父親が行なうべきとか、足で蹴ると人格否定になる(平手で殴ると人格否定にならないらしい)とか、つっこみどころ満載の奇書としてひょっとしたら後世に残るであろう。実際問題として、内容は、おっさんが持論を学術語を使いながらとうとうと開陳していくというものであり、哲学倫理学とはとうてい呼べないと私は思います。

八木誠一『<はたらく神>の神学』

〈はたらく神〉の神学

〈はたらく神〉の神学

八木誠一の新刊である。神学にもとづいた独自の哲学・世界観を構築してきた人の最新刊。

繰り返すが「場」という言葉を用いるのは、神は人間を外からいわば操り人形のように操作するのでもなく、人間が神の語る言葉を「直接に」神から聞いて、それに従ったり背いたりするわけでもないことを示すためである。神のはたらきは、人間の自由を介して、人間の行為を通じて、現実化する。重力の場のなかにある天体がおのずと引き合うように、「神のはたらきの場」に置かれている人間は、自覚にしか現われない「神のはたらき」を宿して、おのずから相互関係に入るということである。

・・・・

人間が、人間は神のはたらきの場のなかに置かれ、そして人間は神のはたらきが実現する場所だと語り、さらに世界と歴史とに「統合作用」をみる人間は、世界と歴史も神のはたらきの場に置かれ、そのはたらきが実現する場所である、と語るのである。(127−128頁)

この本は総論だとして、「高齢のせいもあり、私には将来、各論が書けるとは思えない」(237頁)と記してあるが、生年を見るとまだ80歳のようなので、まだまだこれからだろうと期待させてください。

『生命倫理のフロンティア』

第20巻 生命倫理のフロンティア (シリーズ生命倫理学)

第20巻 生命倫理のフロンティア (シリーズ生命倫理学)

丸善のシリーズ生命倫理学の第20巻である。私も書いた。タイトルは「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利:脳死の子どもから見えてくる「生命の哲学」」というもので、脳死の子どもは「まるごと成長しまるごと死んでいく自然の権利」を有しているから、大人はその身体に介入して臓器を取り出すことはできない、と主張する。これは日本のみならず海外を含めてもマイノリティの立場である。その立場に哲学思想的な根拠を与えようとした論文。地味な内容に見えるが、実のところかなり過激な思索が展開されていると思うが、どうだろうか。

他の論文は玉石混淆。坂本百大「「尊厳」概念再考」は、「「尊厳」という言葉が無意味、無内容」(149頁)ということを主張する文章(論文とは思えない)であるが、同様の主張を2003年に行なって話題になったRuth Macklin "Dignity is a Useless Concept" がまったく参照されていないという代物である。

若松英輔『内村鑑三をよむ』

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

魂にふれる 大震災と、生きている死者

魂にふれる 大震災と、生きている死者

『魂にふれる』の著者、若松英輔が書いた、内村鑑三についての小パンフレット。次のような文章に惹かれる。

同時代の日本人に先んじて、内村は世界に向かって英語で自らの生涯と思想を語った。彼にとっての日本は、世界に開かれてゆく「日本」だった。それは欧米の文化を積極的に摂取することではなく、むしろ、日本的霊性の意義を世界にむけて問い質すことだった。
 日本的霊性は仏教や儒教の伝統に花開くとは限らない。それは「基督教」においても開花する。彼は真実の「基督教」が日本から興り、それが世界に広がってゆくことを疑わなかったばかりか、その実現こそが自分に課せられた最大の使命だと考えていた。(10頁)

内村のような人物を生んだ、歴史的な背景があるとすればそれは何だろうか。現代に内村のような精神性をもった人物は現われているのだろうか、などと思ってしまう。

この点において内村の血脈を継いだのは、キリスト教者であるより、仏教者鈴木大拙であり、哲学者井筒俊彦である。(10頁)

たしかにそうだよね。いま同時代に誰がいるのだろうか?