「救いとは何か」森岡正博・山折哲雄

救いとは何か (筑摩選書)

救いとは何か (筑摩選書)

筑摩選書から3月13日に、山折哲雄さんとの対談本が出ます。内容は「救いとは何か」ということにかかわるテーマで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」とか、「いのちはなぜ尊いと言えるのか?」という話題から始まり、宗教なき時代における「救い」とはいったい何かへと収斂していきます。

山折さんは宗教学、私は哲学ということで、その違いからあちこちで火花が散りながら、後半にかけてだんだんと盛り上がっていきます。前半3分の2は震災前に収録で、最後の章は震災後に収録しました。このあいだの時間の経過による変容を、味わいながら読める本になりました。

また、この本から文章を切り取って発信するtwitterが開始されています(by魔法使いの弟子)。

『救いとは何か』on twitter

https://twitter.com/Sukuitohananika

一日一言みたいな感じですかね。興味ある方はご覧ください。


以下に、私による「まえがき」を貼り付けておきます。

はじめに  森岡正博

「救いとは何か」というテーマで、山折哲雄さんと対談をした。
山折さんは宗教学の著名な学者であるだけでなく、著述家としても数々の素晴らしい作品を書いてこられた方で、私から見ると、とうてい頭の上がらない大先輩なのである。いっぽう私のほうは、脳死臓器移植やセクシュアリティなどについて社会的発言をしてきたわけで、この二人にどのような関係があるのかといぶかしがる読者がおられるかもしれない。
ところで、対談の冒頭でもさらりと触れられているが、いまから二〇年前、山折さんと私は、京都にある研究所で、上司と部下の関係だったのである。その時期に、私は山折さんと一緒にたくさんの仕事をして、いろいろなことを教えてもらった。そして、山折さんの宗教学に対し、私は哲学の立場から論争を仕掛け、二人のあいだには曰く言いがたい緊張感があったのだった。
その二人が久しぶりに再会し、対話を行なった。第1章から第4章までの対談は、二〇〇九年に行なわれた。その後、二〇一一年に東日本大震災が起き、それを受けて急遽行なわれた対談が第5章に収められている。
この本のテーマは、現代社会においていかにして「救い」は可能か、そして、我々はみずからの「生と死」をどのように考えていけばいいか、というものである。山折さんは、冒頭で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを投げかけ、さらに「命を大切にしよう」という言葉には大きな欺瞞があると主張する。この二発の爆弾のような発言にたじろいだ私は、第1章においては、まともな受け答えができていない。
緊張感漂う戦場を正面突破するかのような展開は、山折さんの独壇場である。
読み返してみても、私の言葉にはさほどの迫力がなく、冷汗が垂れているのが紙背から浮き上がって見える。しかし、しばらくのあいだ辛抱しつつ、読み進めていただけないだろうか。話が展開するにつれて、焦点はしだいに定まっていき、そして、東日本大震災後に行なわれた第5章の対談において、山折さんからの二つの問いかけは、私の中から最終的にひとつの言葉を引き出すことになるからである。
このあいだに流れた時間、そして東北での大災害、それらによって私の中に何か新しい思索が産み落とされたのである。この一点をもって、私は山折さんとの対談が行なわれたことを幸せに感じる。第2章から続いていくその発見のプロセスに、ぜひ立ち会っていただければと思う。
対談の中に出てくるいくつかの言葉について、簡単な説明をしておきたい。
まず「生命学」という言葉である。これは私が一九八八年に提唱した学問のことである。ひとことで言えば、「いのち」について、けっして自分を棚上げにすることなく考えながら、生きていく営みのことである。生と死の問題を他人事として評論家のように論評するのではなく、まさにいまここに生きる私自身の問題として、自分の人生の中で考えながら歩んでいくのである。学問というのは、本来、そのようなものではなかったのか、という直観が私にはあった。
ところで、生と死の問題を、これまでもっとも深く考え、行動に反映させてきたのは宗教である。だとすると、わざわざ生命学と言わなくても、宗教の道でそれを追求すればいいではないか。しかしながら、私は宗教の道に入ることができなかったのである。それゆえに私は、宗教の外側で、生と死の問題や、救いの問題を考えて行かざるを得なかった。したがって、生命学とは、宗教がこれまで取り組んできた問題を、宗教の外側で追求していく営みのことである、と考えていただいてかまわない。
対談中に、「一八願」という言葉が出てくるが、これは仏典の『無量寿経』に出てくる四八願の一八番目の文章のことである。阿弥陀仏が、「もし私が仏になるときに、すべての人々もまた念仏によって浄土に生まれることがないのなら、自分は覚りを開かない」と願ったという内容である。これは浄土系の仏教に多大な影響を与えた。そしてこれは、宮澤賢治の言葉、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と響き合っているように思える。この二つに共通しているのは、すべての人々に「救い」がもたらされないかぎり、私の「救い」もまたないのだ、という考え方である。こういう発想は、私の胸を強く打つのであるが、しかしあまりにも潔癖すぎはしないか。それをどう考えていけばいいかというのも、対談の大きな柱となっている。
山折さんは、親鸞を例にあげて、「一人」とはどういうことかと問う。人間が「一人」であることと、人間が「個人」であることは違うのではないかというのである。この問題について山折さんと対話できたのも、大きな収穫であった。「一人」ということを突き詰めていくと、それは長く伸びる一本の糸のようになって、古来よりここに至る無数の人間を貫き通すのではないかと私は思った。
宮澤賢治についての討論は、私たちの対談のなかで、もっとも楽しく読める部分であろう。『オホーツク挽歌』『銀河鉄道の夜』『やまなし』『なめとこ山の熊』などの作品について、想像力をひたすら広げて語り合った。賢治は岩手県花巻の生まれであり、山折さんとは同郷である。賢治は私にとっても大切な作家である。
私はまた、古典的な映画、たとえば『ゴジラ』『禁じられた遊び』『ひまわり』『西部戦線異状なし』などを例にとって、鎮魂の意味について考えた。宗教を持たない私が、死者の鎮魂について考えるとはいったいどういうことか。私は信仰を持たないが、亡くなった人々に対して手を合わせたいと思う。そのとき私は何に対して手を合わせているのか。そのあたりを言葉にするために、私はいろいろなことを山折さん相手に語ってみた。山折さんは「信ずる宗教」と「感ずる宗教」という言い方をされる。その言葉には不思議な説得力がある。
そして山折さんと私は、この世に生まれてきたことをどのようにして肯定するか、この世から消滅していくことをどのように肯定するかについて、それぞれの立場から考えを掘り下げる。これは宗教と哲学の根本問題だ。その思索は、命はどういう意味で大切なのか、救いはどこにあるのかという問いへと、ふたたび戻っていくのである。
この本で私たちが語り合ったことがらは、いま生と死を考えるときに、避けては通れないものばかりである。宗教学と哲学の接点から湧き上がってくる思索のよろこびを、ぜひ読者と分かち合いたいと思う。
では、前置きはこのくらいにして、そろそろ対談を始めることにしよう。