杉田俊介『無能力批評』

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ

2008年6月22日熊本日々新聞掲載

 秋葉原の無差別殺傷事件が起きたとき、私はちょうどこの本を読んでいた。そして、杉田さんがこの本で何度も執拗に考え続けているテーマが、秋葉原の事件に二重写しになって迫ってきた。事件の容疑者が犯行に及んだ動機として、格差社会の問題や、学歴に関するの劣等感などが報道されている。
 容疑者は派遣社員だったとされる。杉田さんもまた、不安定な職を次々と渡り歩き、現在は介護労働者として働くかたわら、「フリーター」についての言論活動をしている。だが、格差社会の底辺部からこの社会の矛盾を撃つ、というような内容を期待して本書を読んだとしても、肩すかしをくらうだろう。なぜなら、著者の眼差しは、人が人を援助していくことと、その逆に人が人を蹂躙していくことが、社会や人間の心の中で、いかに共犯関係を作り上げているのかという点にこそ、注がれているからである。
 ここには、底の見えない地獄のような光景が広がると同時に、ときおり彼方から薄明かりの差してくる瞬間もある。薄っぺらな社会批評ではなく、不条理な社会を生きなければならない人間の悪と救いを共に見据えようとする人間批評が目指されている。けっして読みやすい本ではないけれども、スパっと割り切って考えることを最後まで拒否する著者の思索から、読者は多くのことを学べるはずである。
 たとえば秋葉原事件では、容疑者は、自分がモテないことに対する恨みを、携帯の掲示板に繰り返し書き込んでいた。杉田さんもまた本書で、「モテない」ことと「暴力」との関係を掘り下げる。
 杉田さんは、自分の中にある「モテない」という意識が、性暴力と密接に結びついていると主張する。自分の心の奥底に刻み込まれたその意識は、けっして消えることなくうごめき続け、それはどうしようもない暴力衝動となって膨れあがり、かけがえのない人の「性的な核」を破壊し、蹂躙したいという欲望へとつながっていく。
 その欲望はおぞましいものであり、その暴力を行使することはけっして正しくないということを確認したうえで、しかし杉田さんは、そのような暴力性はけっして否定してはいけないものであると述べる。なぜなら、それは人間を人間たらしめている何ものかなのであり、「邪悪ではあるが消してはならないもの」だからだと言うのである。
 格差社会の底辺であえぎながら生きるしか残されてないのなら、希望は戦争しかない、戦争によってすべての構造が崩壊することを願うしかない、と主張する人がいる。しかし杉田さんは、この声に対しても、そのように「他人を殺してもよいと本当に心から信じた人こそが、むしろ誰を殺すこともできないし、それをしない」というふうになっていく可能性があるのではないか、と考えようとする。
 杉田さんはさらに言う。暴力の被害者たちは、われわれが思っているよりもずっと強くたくましいのではないか。そして同時に、被害者たちはもっとずっと致命的に「深海のように冷たく暗く傷ついている」のではないか、と。それは何かすさまじいことであると同時に、ありふれていて繊細であり、ときに豊かと言ってすらよいものである、と。そして、このことについてこれ以上語ろうとすると、そこから先はもう「失語」しか待っていないような、そういう世界のみがそこには広がっているのだ、と。
 杉田さんは本書で、圧倒的な絶望と蹂躙と暴力と存在否定の光景の中に、あえて希望の光を探そうとしている。しかしその希望の光はストレートには差し込んで来ない。それはたとえば、自分の住む世界にはもはや絶望しかないと自覚的に思い知ったそのときに、その絶望の徹底が意外な希望の可能性をひらくという形でのみ訪れてくる。おそらく世界はそういうふうにできているのであって、そこにこそ、生きるということの尊厳があるのだと、杉田さんは言いたいのだろう。言葉にできないことを言葉にしようとする哲学の試みの萌芽が、たしかに本書にはあると私は感じたのだった。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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