養老孟司『死の壁』新潮新書

死の壁 (新潮新書)

死の壁 (新潮新書)

2004年6月4日週刊読書人掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 養老孟司の本が、ここのところ異様に売れている。『バカの壁』に続いて出された、この『死の壁』もまたベストセラーになっていくのだろう。その秘密はいったいどこにあるのか。と思って読み始めたのだが、たしかにおもしろい。一気に最後まで読み切ってしまった。
  一言でいうと、「養老先生悟りの境地」なのだ。「人間は死ぬと分かっているから、私は安心して生きています」という究極の地点から、人生や日本社会についての含蓄が繰り出されてくる。読んでいて、その断定はないだろう養老先生、と言いたくなるところも多数あるが、それでもどんどんページをめくってしまうこの力は何なのか。
  おもしろさの秘密のひとつは、われわれがはまりやすい常識的な見方を、一発芸で裏返してみせるところにある。たとえば、安楽死について考えるときに、ふつうならば、死んでいく患者にとっての幸福などが議論になることが多いわけだが、養老さんに言わせれば、そんなことよりも、患者を安楽死させる立場にある医師の「重荷」や「心のトラウマ」などにもっと目を向けるべきだ、ということになる。あるいは、かつての大学紛争とは、学生たちが「俺たちにも金を寄こせ、きちんとした職を回せ」という運動だったと指摘する。たしかに、こういうふうには普通は考えないわけだから、「暴言?」とか思いながらも、「それで、それで?」とページを進めていくことになるのである。
  でも、そのような逆転の発想だけでこんなに多くの読者をつかめるわけはない。やっぱり「悟りの境地」へのあこがれ、というようなものが働いているのだろうなと思われる。養老さんは宗教に関してはきわめて冷淡だが、養老さん自身の発するオーラは、ずいぶんと孤高の宗教者っぽい気がしないでもない。
  私も養老さんとは対談をさせてもらったし、シンポジウムでもご一緒することがあるのだが、養老さんときちんとしたコミュニケーションをとることは予想以上にむずかしい。彼の発する言葉は、あまりにも独自であり、かつその場の文脈というものをまったく考慮していないことも多い。だから、それは、あっと驚くところに構えられたミットめがけて、毎回全力投球しなければならない投手のような作業となるのである。要するに、何を言っているのかよく分からないのである。しかしながら、なにかとてつもなく大事なことを言っているように思えるのである。疑いの気持ちは、やがて、そこはかとない尊敬の念へと変わっていく。
  この本もまた、そうだ。「え?」とか思いながらも、ひょっとしてすごいことが言われているかもしれないという気持ちになっていき、最後には「ともかく私は安心して生きていますからね」というわけだから、もう何も言い返す言葉はないのである。正直に言うと、私はこの本の著者に、「あこがれ」を感じる。私がけっしてたどり着くことのないであろう高みにまで登ってしまった人を見たときの、羨望にも似たあこがれの気持ち。
  たとえばこの本は「死」がテーマだから、死についての考察がちりばめられている。そして養老さんは、「死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方がないのも確かです」と言う。なぜなら、「自分の死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題なのだから、そもそもその実体がない。だから、「自分の死に方については私は考えないのです。無駄だからです」と断言する。さらに「そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない」と言うのである。
  ここを読んで、ああ、養老さんと私のあいだには無限の距離があると思わざるを得ないのだ。なぜなら、私は自分の死のことをいまだに最大の問題として考え続けているわけだし、死への恐怖はまったく私の内部から去らないからである。そういえば、ハイデガーも、自分には死の恐怖がないと言っていた。彼らは私にとっての、他者である。
  「自分の死」という問題は、ほんとうに、理屈の上だけで発生した問題なのだろうか。私はそうは思わない。理屈以前の、体感的な次元において、「私が死んだらどうなるのだろう」「私が死んだらすべては無になるのではないのか」「それは耐え難い恐怖ではないのか」という感覚=問いが、私の全身体を襲うからである。そしてそのような感覚から逃れられないのは、私ひとりだけではないであろう。多くの人々は、これらの問いを直覚しながらも、それについて考えるのが怖いから、そこから意識をそらしているだけではないのだろうか。
  少なくとも、私にとっては、そうである。そして私が哲学者になったのも、いくら自分の死から目をそらそうと思っても、たえずそれが恐怖となって襲ってくるから、逆にとことん追いつめて考えるしかないじゃないかと開き直ったからである。そういう私にとって、養老さんの「無駄だからです」という言葉は、ある種残酷に響く。養老先生、迷える子羊を見捨てないでくださいと言いたくなる。
  だが、逆に考えれば、養老さんは「無駄だからです」と発話することによって、自分を孤独の位置につなぎ止めておこうとしているようにも見えるのだ。人々の宗教心を最大に誘引する「自分の死」というテーマを、「無駄」と言い切ることで、読者から自分に向けられるかもしれない依存心や信仰心や目のキラキラを、ばっさりとあらかじめ切り捨てているからだ。
  この本で養老さんは、日本の「村八分」社会について考察しているが、それはたいへん面白い。もちろんすでに世間論などで言い尽くされた論点なのだろうが、養老節で再説されると、なるほどなと納得してしまう。われわれの社会に染み渡っているのは、お上を中心にして生きている人々のメンバーシップ社会であって、そこからはみ出した人に対しては、われわれは非常に冷たいのだと指摘する。生命倫理で問題となる胎児の扱いや、遠い外国の人々の命の問題に、日本人が冷淡なのもこれが原因だと言われれば、妙な説得力がある。そういえば日本は難民の受け入れが異様に少ない「先進国」だし、昨今の「自己責任論」の冷淡さもまたこれが原因なのだろうなと思ってしまう。
  日本で言う学歴とは、結局、某大学卒という小さな共同体出身の宣言をみんなで確かめ合うことにすぎないのであり、養老孟司はいつまでたっても「昭和三七年東京大学医学部卒」として紹介され続けるのだという箇所は、何ともいえない気持ちになって読んだ。そういえば養老さんは定年を待たずして東大を退官したわけで、いわば東大に縁切り状を叩きつけたわけなのに、「世間様」はそれをなかったことにして、養老孟司の名声をお上へとひたすら回収する装置として機能するのである。養老孟司の敵は、ここにこそ存在するではないのか。したがってこの本は、意外にも、いま「戦いの書」として読むべきなのである。

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