佐藤伸彦『家庭のような病院を』

家庭のような病院を―人生の最終章をあったかい空間で

家庭のような病院を―人生の最終章をあったかい空間で

2008年4月27日熊本日々新聞掲載

 年老いた親が病気で動けなくなったり、認知症が進んで徘徊するようになったら、いったいどうすればよいのだろうか。状態が悪化していくと、病院で看てもらうことになるのだが、病院の中は人間らしい生を送ることができる場所なのだろうか。
 著者の佐藤さんは、総合病院で高齢者医療を担当してきた。佐藤さんも、医師の立場から、同じような悩みをかかえていた。病院の中で最後のときを過ごす高齢の患者さんたちに、その人らしい生を全うしてもらうためには、いまの病院そのものが変わらなければならないのではないかと思ったのだ。
 ちょうど、がん患者のためにホスピスがあるように、あらゆる高齢者の最後を人間らしく支えることができるような場所が必要ではないかと佐藤さんは言う。彼はそのような施設のことを「ナラティブホーム」と呼ぶ。
 「ナラティブ」とは、「物語」のことだ。高齢の患者さんたちにも、いままで生きてきたその人固有の「物語」がある。患者さんたちが持っている、その人自身のかけがえのない「物語」を大切にして、それを中心に医療を組み立てていこうと言うのである。
 佐藤さんは、寝たきりになって言葉をしゃべることもできない高齢の患者さんの人生のアルバムを作りたいと、家族に申し出る。そして、病院スタッフと家族が一緒になって、寝たきりの患者さんの人生を一望できるようなアルバムを作り始める。そして、生まれた頃の写真から、デートのときの写真、仕事中の写真まで集めてアルバムにしたとき、医療スタッフの目前には、その患者さんのありありとした固有の人生が立ち上がってきたのである。
 それまでは病気をかかえた一患者としてしか映っていなかったのだが、この作業をすることによって、固有名詞をもったひとりの人間としての姿が、医療スタッフにも見えてきたのである。家族もまた、この共同作業をすることで、患者さんと過ごした人生を振り返るひとときを持つことができる。
 そのアルバムをスライドのようにしてスクリーンに映し出したとき、佐藤さんやスタッフは思わず涙ぐんでしまったという。
 寝たきりでコミュニケーションのとれない患者さんを目の前にしたとき、「こんな状態で生きる意味があるのだろうか」と私たちは問いがちになる。しかし佐藤さんは、そうは考えない。何も言わない患者さんがただ目の前に存在しているというそのことが、私たちに何を問いかけているのか、その声に耳を澄ますべきだと主張する。
 患者さんが亡くなったとき、そこで医療が終わりになるわけではない。患者さんの最後の生がどのようなものであったのかについて、医師は告別式のときに参列者に向かって語ってもよいのではないか、と佐藤さんは考える。そして実際に、告別式で、医師の目から見た患者さんの最後の経過を、参列者の前で報告するのである。
 それをやり終えたとき、佐藤さんは「達成感」を感じることができたと言う。患者さんの最後の生に参与し、告別式でそれを報告することによって、「ひとつの物語を読み終えた、ひとつの物語を書き終えた」という達成感を得ることができたのである。
 佐藤さんは、おそらく、いままでの医療では考えられなかったような次元へと足を踏み入れ始めているのではないだろうか。肉体の治療に専念するこれまでの医療にとって、患者さんの死というのは、医療の敗北宣言以外の何ものでもなかった。ところが、患者さんとその家族が作り上げてきた「物語」へと積極的に参与することを目指す佐藤さんたちの試みは、まさに死によって否定されることのない、新しい形の医療のように思われるからだ。
 佐藤さんたちは、「物語」の医療を進めていくために必要な、新しい病院施設を作ろうとしている。それを実現していくにはきっと困難がつきまとうだろうが、そのような場所を心の底から待ち望んでいる人々は、この社会にたくさんいる。家庭のような病院があってほしいと願う人々にぜひ薦めたい一冊である。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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