フォカ、ライト『イラスト図解 "ポスト"フェミニズム入門』作品社

イラスト図解 “ポスト”フェミニズム入門

イラスト図解 “ポスト”フェミニズム入門

2003年10月12日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 いま日本の各地で、「ジェンダーフリー」の考え方への批判が繰り広げられている。すなわち、男と女の差をなくしていこうとするジェンダーフリーの思想は、この世から「男らしさ」「女らしさ」を消滅させ、ひいてはトイレまで男女共用にさせようとするものである、というのだ。そして、そのような過激思想をばらまいた元凶として、フェミニズムが糾弾されるのである。
 しかしフェミニズムは、ほんとうにそんなことを主張してきたのか? それを確かめるために、書店に行って女性学のコーナーを探索してみても、なにやら難しい議論をしている書物ばかりで、とまどってしまう人が多いのではないだろうか。
 本書は、フェミニズムの最先端をコンパクトにまとめた一冊である。ますます多様化してきた現代社会のなかで、フェミニズムがどのように苦しみ、もがいてきたのかを知ることのできる貴重な本だ。タイトルに「イラスト図解」とあるように、ほとんどすべてのページに漫画イラストが付けられており、議論のツボを直観的に捉えることができるようになっている。
 フェミニズムの思想は、その当初から、「女と男は平等でなければならない」という考え方と、「女と男のあいだ、女と女のあいだには差異がある」という考え方の両方を含んでいた。現代社会を生きる女性たちにとっては、そのどちらも大事な考え方なのであり、一見矛盾するように見えるこの二つの考え方を、どのようにして両立させるかをめぐって、フェミニストたちの苦闘が続けられてきたと言っても過言ではない。
 女性は、社会参加のみを奪われてきたのではない。女性は、「女とは何であるのか」を自分自身で考えて語るための「言葉」を奪われてきた。しかし、そのための「言葉」を手に入れようとする女性たちが、まるで従来の「男」のようになってしまったらどうなるのか。かといって、いつまでも沈黙の空間に座しているわけにはいかない。言葉を奪われる経験を言葉にしてもよいのかどうか。「ポストフェミニズム」とは、このような身を切るような難問から出発する思想なのである。

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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

2003年9月28日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 哲学者ウィトゲンシュタインが、一九一八年に出版した『論理哲学論考』の新しい翻訳が、岩波文庫から出た。いままで文庫になっていなかったのが不思議なくらいの書物だし、翻訳した野矢茂樹さんは、この分野の第一人者だから、これはもう本年の目玉出版と言っていいと思う。
 当時ウィトゲンシュタインは弱冠二九歳。そして死ぬまでのあいだ、この本一冊しか公刊しなかった。それにもかかわらず、この本に惹かれた哲学者たちが「論理実証主義」という思想集団を結成し、二〇世紀の哲学に大きな影響を与えたのであった。
 ウィトゲンシュタインは、この本で、哲学の問題をすべて解決したと断言し、哲学をやめて小中学校の教師となった。彼は、世界には正しく語りうることと、語りえないことがあると言う。そして哲学とは、いったいどこからどこまでが正しく語りうることなのかを、はっきりと示すことだというのだ。そして、そのための論理学を、独力で編み出すのである。
 頭脳を搾り取るような作業の果てに見出されたのは、以下のような結論である。「独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである」「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」。
 この世には、言葉によって言い表わせないものが存在する。それは、言葉によって描写されるのではなく、逆に、言葉によって描写されないというかたちをもって、「示される」のである。したがって、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。これが、この哲学書の最後の一文となった。
 この哲学者が最後に至り着いたところの、「語りえぬもの」とはいったい何なのかについて、多くの考え方が出されてきた。それが宗教、倫理、生にかかわるものであることは確かである。だが、そこから先は、もう自分の頭で考えなければならないのであろう。翻訳者の野矢さんはウィトゲンシュタインの思索の根底にまで降りた翻訳をしている。本物の哲学が味わえる本である。

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荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか―団塊と団塊ジュニアの溝』中公新書ラクレ

2003年8月31日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 著者の荷宮さんは一九六三年生まれであり、団塊世代と、団塊ジュニア世代のあいだに挟まれた、肩身の狭いグループに属している。荷宮さんの結論は明快である。いまの日本社会を覆っている閉塞感を生み出したのは、団塊世代団塊ジュニアたちだというのだ。
 まず団塊の世代だが、この人たちは、大多数でつるんでしまえば何も怖いことはないという行動様式を発明し、実践した。そして「自分よりも明らかに目上である、という人間が見あたらない場所では、何をしてもかまわない」と考える。その態度は、「意味なくエラソー」だ。
 彼らの子どもたちである団塊ジュニアは、親の集団主義をそっくりそのまま受け継いでいる。そして「決まっちゃったことは仕方がない」と考え、社会に対して基本的に「投げやりな」態度を取る。何か理不尽なことがあったとしても、それに対して怒りをあらわすのはかっこわるいし、誰もそんなことをしないから、自分もまた怒らない。がんばったところで何も変わらないのだから、がんばったってしょうがないし、がんばらないほうがむしろかっこいいと考える。
 荷宮さんは、このような両世代に対して、怒りをぶちまける。きみたちのような集団主義や、なげやりな態度が、この社会をヤバくしているのだと力説する。もちろん、世代論でくくること自体が大問題だというは著者も認識しているし、このようなくくり方をされて不快になる人々が多くいるであろうことも予想している。しかしながら、荷宮さんの言うような傾向がいまの日本社会にあること自体は、疑えないのではないだろうか。
 これら両世代は、来たるべき「戦争」に対して「断固ノー」と言えないのではないか、という危機感を荷宮さんは抱いている。「仲間はずれ」にならないように神経をすり減らし、怒るべきときでも怒ろうとしない「投げやり」な若者たちを、戦争への道へと追い込んでいくのはきわめて簡単なのではないか。著者が「いまの若い者」にあえて苦言を呈する真の理由はここにある。この声は、どうすれば若者たちに届くのだろうか。

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中島義道『愛という試練』紀伊國屋書店

愛という試練

愛という試練

2003年8月後半信濃毎日新聞不掲載

*書評担当者と相談の上、新聞掲載を見送りました。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 哲学者でエッセイストの中島義道さんが、人を愛することのできない自分自身の姿と、そういう自分を育てた両親の悲惨な愛の人生について、赤裸々に告白した本である。読み終わって、とても不快な鉛のようなものを飲まされた気分になるが、すごい本であることだけは間違いない。
 中島さんは、わが子が転んだときであっても、思わず駆け寄って抱き上げることができない。身体がそういうふうに、自然に動かないのである。全身が凍り付き、どうしていいのか分からなくなるのである。
 中島さんは、そのような自分を、両親から受け継いだと語る。父親は、一見普通の善良な人間であったが、身近な他者を愛するという感覚が決定的に失われた人物であった。父親が家族に対して見せる優しいふるまいは、すべて、父親ならそういうふうにふるまうのが当然だろうという常識と計算に基づいてしているだけであって、けっして心からの愛情の発露ではなかった。そのようなやさしさの本質を、家族はたちまち見抜き、父親に対して深い憎悪の念を蓄積させていったという。
 母親は、父親に愛情を求めたが、繰り返し裏切られ、それでも四〇年間別れることをせず、彼に罵詈雑言を浴びせ続けた。父親が死んだあと、母親は「あいつは許せない!」と隣の病室に聞こえる大声で叫んだ。そのような母親を見て、中島さんはこう書いている。「叫べ、叫べ、と思う。もう十分苦しんできたんだ。もう変えようがない。獣のように叫んで叫んで叫び疲れて、死ねばいいと思う」と。
 中島さんは、世間に満ち満ちている愛情ゲームを拒否する。人間たるもの家族や子どもを愛して当たり前という常識を否定する。愛が人をがんじがらめにするのなら、そんなものはないほうがいい。中島さんは、実の家族について、「妻から愛されていると感じることも苦しいし、息子から愛されていると感じても鬱陶しい」と言い切る。自分には、もう一片の愛情も共感もいらないのだというこの辺境の砂漠のような世界は、並の小説では太刀打ちできない極限の悲惨を描き得ていると思う。

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谷川俊太郎編『祝魂歌』ミッドナイト・プレス

祝魂歌

祝魂歌

2003年8月3日信濃毎日新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 人は死にゆくときに、いったい何を思うのだろうか。この世の生が終わったあとに旅立つはずの、あの世の姿について想像するのか。それとも、この世に残してゆくであろう大切な人々や、美しいふるさとの姿などを反芻するのだろうか。
 谷川俊太郎さんは、その答えを、人々が愛唱してきた数々の詩の中に求めた。東西の詩人たちは、死のあとの世界について、いったいどんなことを歌ってきたのか。人生にとって、死とは、どういう出来事だと考えてきたのか。今年七二歳になる谷川さんにとっても、それはもう他人事ではなかったのだろう。この本に集められたのは、生と死への思いを言葉によって結晶化させようとする、すさまじいばかりの詩人たちの執念の歴史である。
 たとえば、みずからが死ぬ日のことを歌ったタゴールの詩はこう始まる。「逝く日には かく言ひて/われ逝かむ/わが見しもの 得しものは/比(たぐひ)なしと」。死ぬゆく日には、こう言って、私は死ぬであろう、私が見てきたもの、体験してきたものは、比較を絶してすばらしかったと。タゴールは続ける。世の中という舞台の上で、私は何度か舞った。両目を見開き、姿なきものを見て、触れることのできない「あれ」が、ありありと近づいてくる、いまここで、人生終わるというのならば、時が終わるのもまたよし。
 林芙美子の「遺書」という詩は、次のように終わる。「土地も祖先もない故/私の骨は海へでも吹き飛ばして下さい」。ロベール・デスノスは歌う、「いまぼくに残されたことは、影のなかの影であること/影よりも百倍も影であること」。
 これらに比べて、民族的な歌謡はおおらかだ。チョンタル族古謡「この世の人が死にました/一人の人が死にました/大地が喜んでいる/空も喜んでいる/ほほえんでうたっている」。プエブロ族の古老「今日は死ぬのにもってこいの日だ。/生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている」。
 ここに集められた三〇篇は、そのままで、詩の入門書としても十分に読むことができる。座右に置いて、繰り返し味わいたい書物である。

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