加藤秀一『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』ちくま新書

恋愛結婚は何をもたらしたか (ちくま新書)

恋愛結婚は何をもたらしたか (ちくま新書)

2004年10月17日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 最近では、仲人によるお見合いは、ほとんどなくなってきているらしい。若い男女の結婚は、「恋愛」結婚が常識となりつつある。もちろん、結婚相談所などのサービスは依然として盛んなわけであるが、そこにおいても、うたい文句は「二人の恋愛のサポート」ということになる。
  著者は、この「恋愛結婚」がいつ頃から始まったのかをたんねんに探っていく。ごく最近のことかと思っていたら、そうでもなくて、明治時代に提唱されたものであるらしい。それが、紆余曲折を経て、現代の花盛りとなっているというわけだ。北村透谷から始まった「恋愛」と「家」との矛盾葛藤の歴史は、さながらもう一つの日本近代史という感じだ。
  ところが、この「恋愛結婚」という流れに、ぴったりと寄り添っている、もうひとつの潮流があることに著者は気づく。それは「優生結婚」である。実に、明治時代から第二次大戦後に至るまで、結婚するときには、すぐれた子どもを産めるような相手を選ぶのが当たり前という考え方が、人々のあいだに満ち満ちているのである。
  かの福沢諭吉ですら、人間の能力は遺伝で決まるから、家畜を改良するときのように、よい父母によい子どもを産ませ、優秀でない者には結婚を禁じるべきであると断言しているのである。それが時代の風潮であった。
  このような優生思想と、恋愛結婚が、大正から昭和にかけて合体しはじめる。すなわち、家柄や財産によって相手を選ぶのではなく、男女が清い交際をしながら、互いの精神性に惹かれあい、恋愛することによって、よりよい相手を選び、よりよい子どもを産んでいくべしという考え方が出てくるのだ。
  これは、恋愛という心の内面の回路を通じて、男女が自発的に優生結婚を選び取る道なのである。それは現代にまで脈々と生き続けているのではないか。まったく新鮮な角度から恋愛と優生思想をえぐりとった好著である。

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哲学ユニットG★RDIAS始動!

哲学ユニット「G★RDIAS」によるチームブログ「G★RDIAS」が始動しました。私もユニットの一員として、書き込みをしていきます。なかなか刺激的で目が離せないブログになると思うので、ぜひ注目していてください。

G★RDIAS
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小野登志郎『ドリーム・キャンパス』太田出版

ドリーム・キャンパス―スーパーフリーの「帝国」

ドリーム・キャンパス―スーパーフリーの「帝国」

2004年8月15日北日本新聞ほか(共同配信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 早稲田大学を中心とするイベントサークル「スーパーフリー」が起こした、連続強姦事件についてのドキュメンタリーである。著者は、加害者と被害者にインタビューを行ない、法廷での審理の様子をていねいに跡づけながら、事件の全貌に迫ろうとした。
  そこから見えてくるのは、「金と女」が殺し文句となる若者たちの殺伐たる生態であり、被害者の女性の身になって考えるという思考回路を決定的に欠いた大学生たちの姿であり、クラブイベントと酒盛りとセックスをもって「六本木大学」と称していたその空虚な世界観である。
  しかしながら、著者も指摘するように、彼らの放つ徹底的な「空虚さ」は、実は、今日の日本に生きる多くの人々の「空虚さ」と同質のものではないのかという疑問が、本書を読み終わったあとで湧いてくるのだ。金、女、酒、ねつ造された和姦、最後には強姦。結局、男たちは、第二次大戦中から、高度経済成長を経て、今日に至るまで、まったく同じことを繰り返しているだけなのではないだろうか。
  華やかなイベントのあとで、二次会に残った女子大生たちを、強い酒に酔わせ、意識不明に追い込み、吐いてもうろうとしている状態で、数人で順番に強姦するという出来事がルーティーンのように行なわれ、女性が訴えれないように事後には写真を撮り、証拠として押さえる。このような犯罪に、若い男子学生たちが、物事を深く考えることなく加わっていた。関与した人数はきわめて多く、裁判になったのはその一部である。
  本書に収められた、彼らへのインタビューや法廷記録を読むと、その手口の用意周到さと、彼らの思考回路の単純さのあいだの落差に愕然とする。だが、この種の現象は、日々のテレビのバラエティ番組にあふれており、ポルノビデオでも通常の世界観である。いまや日本全体が、スーパーフリー的な精神構造に犯されているとしか思えない。時代を見事に切り取った一冊である。

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坂井律子・春日真人『つくられる命:AID・卵子提供・クローン技術』NHK出版

つくられる命  ~AID・卵子提供・クローン技術

つくられる命 ~AID・卵子提供・クローン技術

2004年6月20日東京新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 他人からの精子を用いた人工授精によって生まれた子どもが、世界中にたくさんいる。生まれた子どもから見てみれば、卵子は母親のものなのだが、精子は父親のものではない。誰か分からない第三者精子なのだ。
  だが、子どもが大きくなったときには、どうするのだろうか。多くの場合、両親は子どもに出生の秘密をしゃべってない。それだけではなくて、両親もまた、精子が誰のものなのかを知らないのだ。精子を提供した人の匿名性は、病院によってきびしく守られているのである。
  ところが、何かのきっかけで、遺伝上の父親が他にいることに気づいてしまった子どもたちが出てきた。彼らは、両親がいままで出生の秘密を隠してきたことにショックを受け、なんとかして自分の遺伝上の父親を探そうとする。彼らは、インターネットを駆使して、同じような境遇の子どもたちをネットワークし、出生時の病院の情報を探索し、精子を提供した人物を特定しようとするのだ。
  本書の著者たちは、遺伝上の父親を突き止めようとする彼らの行動を、つぶさに追った。そして、ふだんは知られることのない彼らの心情を、あたたかいまなざしで浮かび上がらせることに成功している。出生の秘密を隠された子どもたちは、のちにそのことを知ったときに、大きな心の傷を受ける。
  その傷は、他人には推し量れないものであろうが、しかし本書で紹介されている子どもたちの必死の思いは心を打つ。養子縁組をした親から、あなたはどうしてそんなに「遺伝上の父親」にとらわれているのかと突きつけられ、親と子がともに真実を伝えあうプロセスの中で、親子の関係が紡ぎ上げられていくことに気づいた子どもの話は感動的だ。
  と同時に、慶応大学で行なわれてきた精子提供で、提供者の匿名性が守られてきた大きな理由のひとつは、現在、立派な地位の医者になっているかもしれない提供者を守ることにあるとの指摘も興味深いものであった。

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養老孟司『死の壁』新潮新書

死の壁 (新潮新書)

死の壁 (新潮新書)

2004年6月4日週刊読書人掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 養老孟司の本が、ここのところ異様に売れている。『バカの壁』に続いて出された、この『死の壁』もまたベストセラーになっていくのだろう。その秘密はいったいどこにあるのか。と思って読み始めたのだが、たしかにおもしろい。一気に最後まで読み切ってしまった。
  一言でいうと、「養老先生悟りの境地」なのだ。「人間は死ぬと分かっているから、私は安心して生きています」という究極の地点から、人生や日本社会についての含蓄が繰り出されてくる。読んでいて、その断定はないだろう養老先生、と言いたくなるところも多数あるが、それでもどんどんページをめくってしまうこの力は何なのか。
  おもしろさの秘密のひとつは、われわれがはまりやすい常識的な見方を、一発芸で裏返してみせるところにある。たとえば、安楽死について考えるときに、ふつうならば、死んでいく患者にとっての幸福などが議論になることが多いわけだが、養老さんに言わせれば、そんなことよりも、患者を安楽死させる立場にある医師の「重荷」や「心のトラウマ」などにもっと目を向けるべきだ、ということになる。あるいは、かつての大学紛争とは、学生たちが「俺たちにも金を寄こせ、きちんとした職を回せ」という運動だったと指摘する。たしかに、こういうふうには普通は考えないわけだから、「暴言?」とか思いながらも、「それで、それで?」とページを進めていくことになるのである。
  でも、そのような逆転の発想だけでこんなに多くの読者をつかめるわけはない。やっぱり「悟りの境地」へのあこがれ、というようなものが働いているのだろうなと思われる。養老さんは宗教に関してはきわめて冷淡だが、養老さん自身の発するオーラは、ずいぶんと孤高の宗教者っぽい気がしないでもない。
  私も養老さんとは対談をさせてもらったし、シンポジウムでもご一緒することがあるのだが、養老さんときちんとしたコミュニケーションをとることは予想以上にむずかしい。彼の発する言葉は、あまりにも独自であり、かつその場の文脈というものをまったく考慮していないことも多い。だから、それは、あっと驚くところに構えられたミットめがけて、毎回全力投球しなければならない投手のような作業となるのである。要するに、何を言っているのかよく分からないのである。しかしながら、なにかとてつもなく大事なことを言っているように思えるのである。疑いの気持ちは、やがて、そこはかとない尊敬の念へと変わっていく。
  この本もまた、そうだ。「え?」とか思いながらも、ひょっとしてすごいことが言われているかもしれないという気持ちになっていき、最後には「ともかく私は安心して生きていますからね」というわけだから、もう何も言い返す言葉はないのである。正直に言うと、私はこの本の著者に、「あこがれ」を感じる。私がけっしてたどり着くことのないであろう高みにまで登ってしまった人を見たときの、羨望にも似たあこがれの気持ち。
  たとえばこの本は「死」がテーマだから、死についての考察がちりばめられている。そして養老さんは、「死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方がないのも確かです」と言う。なぜなら、「自分の死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題なのだから、そもそもその実体がない。だから、「自分の死に方については私は考えないのです。無駄だからです」と断言する。さらに「そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない」と言うのである。
  ここを読んで、ああ、養老さんと私のあいだには無限の距離があると思わざるを得ないのだ。なぜなら、私は自分の死のことをいまだに最大の問題として考え続けているわけだし、死への恐怖はまったく私の内部から去らないからである。そういえば、ハイデガーも、自分には死の恐怖がないと言っていた。彼らは私にとっての、他者である。
  「自分の死」という問題は、ほんとうに、理屈の上だけで発生した問題なのだろうか。私はそうは思わない。理屈以前の、体感的な次元において、「私が死んだらどうなるのだろう」「私が死んだらすべては無になるのではないのか」「それは耐え難い恐怖ではないのか」という感覚=問いが、私の全身体を襲うからである。そしてそのような感覚から逃れられないのは、私ひとりだけではないであろう。多くの人々は、これらの問いを直覚しながらも、それについて考えるのが怖いから、そこから意識をそらしているだけではないのだろうか。
  少なくとも、私にとっては、そうである。そして私が哲学者になったのも、いくら自分の死から目をそらそうと思っても、たえずそれが恐怖となって襲ってくるから、逆にとことん追いつめて考えるしかないじゃないかと開き直ったからである。そういう私にとって、養老さんの「無駄だからです」という言葉は、ある種残酷に響く。養老先生、迷える子羊を見捨てないでくださいと言いたくなる。
  だが、逆に考えれば、養老さんは「無駄だからです」と発話することによって、自分を孤独の位置につなぎ止めておこうとしているようにも見えるのだ。人々の宗教心を最大に誘引する「自分の死」というテーマを、「無駄」と言い切ることで、読者から自分に向けられるかもしれない依存心や信仰心や目のキラキラを、ばっさりとあらかじめ切り捨てているからだ。
  この本で養老さんは、日本の「村八分」社会について考察しているが、それはたいへん面白い。もちろんすでに世間論などで言い尽くされた論点なのだろうが、養老節で再説されると、なるほどなと納得してしまう。われわれの社会に染み渡っているのは、お上を中心にして生きている人々のメンバーシップ社会であって、そこからはみ出した人に対しては、われわれは非常に冷たいのだと指摘する。生命倫理で問題となる胎児の扱いや、遠い外国の人々の命の問題に、日本人が冷淡なのもこれが原因だと言われれば、妙な説得力がある。そういえば日本は難民の受け入れが異様に少ない「先進国」だし、昨今の「自己責任論」の冷淡さもまたこれが原因なのだろうなと思ってしまう。
  日本で言う学歴とは、結局、某大学卒という小さな共同体出身の宣言をみんなで確かめ合うことにすぎないのであり、養老孟司はいつまでたっても「昭和三七年東京大学医学部卒」として紹介され続けるのだという箇所は、何ともいえない気持ちになって読んだ。そういえば養老さんは定年を待たずして東大を退官したわけで、いわば東大に縁切り状を叩きつけたわけなのに、「世間様」はそれをなかったことにして、養老孟司の名声をお上へとひたすら回収する装置として機能するのである。養老孟司の敵は、ここにこそ存在するではないのか。したがってこの本は、意外にも、いま「戦いの書」として読むべきなのである。

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服部正『アウトサイダー・アート』光文社新書

アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

2003年12月7日掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 とても面白い本だ。面白いだけではなくて、深く考えさせられる。アートとは何だろう、障害とは何だろう、作品とは何だろう。自分の中にあった既成概念が、がらがらと崩れていくのが分かる。この新書は、アウトサイダー・アートというものを、一般の読者に開いたという点で、画期的な書物になるのではないだろうか。
 アウトサイダー・アートとは、「これが芸術だ」という一般常識からはかけ離れているにもかかわらず、観るものになんともいえない感動をもたらす作品のことである。そして、多くの場合、作者たちは、自分が製作したものを「アート」だとは思っていない。彼らは、何かに取り憑かれたようにただ黙々と「物体」やら「デッサン」やらを作り続けるのみ。そして彼らの多くは、いわゆる知的障害などをもった人々である。
 知的障害をもつ八島孝一は、自宅から施設まで、ゆっくりと二時間もかけて歩く。そのあいだ、道に落ちている様々な物体、たとえば歯車や、空き容器や、ボールペンなどを吟味しつつ拾っていく。そして彼は、集めた収穫物をセロハンテープで器用に接着し、唖然とするほど美しい造形物を作り上げてしまうのである。その作品群は、施設の職員によって保存されたがゆえに、いま我々の前に「アート」として紹介される。
 この本で紹介されているアウトサイダー・アートで、私がもっとも感動したのは、喜舎場盛也(きしゃばもりや)の生み出す「漢字の宇宙」だ。知的障害を持つこの二四歳の若者は、航空管制記録紙に、ひたすら漢字を書き込んでいく。篆刻かと思われるほど整った筆致の小さな漢字で、広大な記録紙全面が埋め尽くされた作品からは、どこか宗教的な香気さえたちのぼってくる。一枚を漢字で埋め尽くすのに半年はかかるのだが、本人ははたして自分の作業をアートだと思っているのだろうか。
 もちろん本書の著者の服部さんは、アウトサイダー・アートをすら「美術」の内側に取り込んでいこうとする制度化の罠に気づいている。しかし同時に、彼ら作家たちの集中力と偏愛こそが、芸術の原点なのだと服部さんは訴えるのである。

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