「妊娠中絶の生命倫理:哲学者は何を議論したか」

妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理

英語圏の70年代からの中絶の生命倫理の代表的な論文を集めて翻訳したもの。これまでの断片的な翻訳紹介を一新するエポックメイキングな本だと言える。収められているのは、JJトムソンの「妊娠中絶の擁護」という中絶についてのもっとも有名な論文の全訳をはじめ、トゥーリーの「パーソン論」論文の全訳、ウォレン、イングリッシュらのしぶい論文、シャーウィンのフェミニストからの視点など。なかでも注目すべきはやはりトムソン論文の全訳だろう。それとトゥーリー論文の改訳か。この二つとも、日本の生命倫理学草創期の「バイオエシックスの基礎」での抄訳を乗り越えてそれを一新するものであり、前著を持っている者は本書を備えるべきであろう。

そもそも「バイオエシックスの基礎」は、当時千葉大学にいた飯田亘之と加藤尚武の圧倒的な指導力のもとで作成された翻訳集であり、当時、生命倫理の何たるかをほぼ知らなかった哲学倫理系の大学院生を動員して訳させたものだ。私自身もトゥーリーの翻訳の下訳を担当しており、これが加藤らによって仕上げられた。最近の拙論にも書いたが、トゥーリー論文のタイトル「嬰児は人格を持つか」は「バイオエシックスの基礎」の編者によって付けられたタイトルであり、「人格を持つ」の不自然さは、当時の研究水準のありかを物語っていると言えよう。

本書の論文の選び方はきわめてオーソドックスであり、英語圏の論文集における標準的なものを採用しているように見える。大学院でのテキストとして最適ではなかろうか。