メタバイオエシックスの構築へ

メタバイオエシックスの構築へ―生命倫理を問いなおす

メタバイオエシックスの構築へ―生命倫理を問いなおす

米国のバイオエシックス生命倫理)を歴史的、科学論的に相対化し、その功罪を見つめながら今後のこの方面の見通しを立てようとする研究書。生命倫理学会でずっとメタバイオエシックスの分科会をやってきた小松美彦、香川知晶による編集。この領域に関心がある者は必読であろう。

序章の小松による「メタバイオエシックスの構築に向けて」は、全体像を簡潔に書ききっていて読みやすい。フーコー的視座によって生倫理を読み解く可能性については、私も同感である。第2章の皆吉淳平による米国バイオエシックス研究者への大規模調査は、なかなか貴重な試みであると思われる。ある意味本書でいちばん興味深かったのはこの章かも。これは英語では発表されるのだろうか。第4章のライクの講演録の紹介もまた面白かった。草創期のバイオエシックスのほうが、より哲学的に広い視野を持っていたことが如実にわかる。それに比べれば現在の制度化したバイオエシックスは精密になったぶん、チマチマしている。(同じことは日本の70年代リブと、80年代以降制度化フェミニズムにも言えるだろう)。ライクはバイオエシックスを生み出した土壌としての60年代米国カルチャーのスピリチュアリズムについて触れているが、バイオエシックスの制度化とはそのスピリチュアリティへの眼差しを忘却していく過程であったということになるだろう。ライクは、予言的先駆者として、ビーチャー、ポッター、ヨナスをあげている。このなかではヨナスがいちばんの大物であることはこのブログでも指摘してきたことである。ヨナス(ヨーナス)再評価の日は近いな。

全体として思うのは、日本でこのような研究書が出るようになったことは感慨深い。と同時に、日本のこの分野の制度化も進んできているというわけで、日本でも草創期の熱気は失せたと見ることもできるだろう。(草創期ではこの分野に本格的にタッチすることは研究者としての就職を捨てることをも意味していた。いまはむしろこの分野にタッチすることで就職が可能になる道が見えてきている。)私の最初の本のタイトルは『生命学への招待−バイオエシックスを超えて』(1988年)というものだった。副題に見えるように、ここではバイオエシックスは、超えるものとして捉えられている。もちろん当時は、超えるべき対象をきちんと把握できていなかったというのは上記書を見ればわかるのだが、しかしこのいきなり「超えよう」とする熱気がいまこの分野にあるかというと、どうだろうか。

ついでにいうと、日本へのバイオエシックスの初期の「輸入」はつねに、それを「超え」ようとする動きとともにあった、ということをどう考えるかという興味深い問題が残されている。

まあ、細かいことを言えば、私の仕事への言及が第1作のみであるとか、私がずっと言ってきたリブ・障害者の言説・運動への目配りがほぼないことなど、いろいろ不満はあるが、でも良い仕事だと思った。