金井淑子「依存と自立の倫理:<女/母>の身体性から」

依存と自立の倫理―「女/母」(わたし)の身体性から

依存と自立の倫理―「女/母」(わたし)の身体性から

2011年8月19日読書人掲載

 社会状況の急激な変化にともなって、フェミニズムもまた大きな変容を余儀なくされている。女性の置かれた生きづらさの原因をすべて家父長制に帰してよしとするような考え方や、男女のあらゆる関係性を対等性を軸にして再構築すればよいというような考え方は、すでにフェミニストたち自身から完全に疑問視されていると言ってよい。政策決定やエンパワメントの実践においてはともかく、理論の次元においては、フェミニストたちはさらに先鋭的な地点で議論を模索しているのである。
金井淑子の新著は、これら現代のフェミニズムが模索している諸問題を、倫理学現代思想の地平から読み解こうとするものだ。そこで浮上してくるのは、ひとつには「家族をどうするのか」という問いであり、もうひとつは「女・母という主体をどうするのか」という問いである。金井はそれぞれに対して、本質主義(これはフェミニズムにとって不倶戴天の敵である)に間違われるかもしれないというリスクを背負いながら、家族と母を部分的に肯定する立場を提唱する。金井の言葉を用いれば、それは「フェミニンの哲学」であり、「母の身体性」「母の経験」「母の記憶」「いのちへのまなざし」である。ケア倫理と母性主義への悪しき先祖帰りという批判を予想しながらも、金井はそこからフェミニズムの未来形が豊かに取り出されるはずだと言おうとしている。
 まず家族についてであるが、金井は近代家族にかえて、新しい親密圏の成立を構想している。それはまず、家族関係から性愛を抜き去ったような親密圏である。そこでは性愛やケア関係から不可避的に起きてくる暴力というものがぬぐい去られる可能性がある。そして血のつながらない者たちが親密圏を選び取り直すこともできなくてはならない。金井はとくに述べていないが、このような親密圏では、たとえば「セックスレス」がアプリオリに「問題化」されることはあり得ないわけであり、それは大きな解放を成員たちに与えるかもしれないと私は思う。
 次に女・母という主体についてであるが、金井は70年代にリブが作り上げようとしていたCR(コンシャスネス・レイジング)的な共同体を、女としてのみずからの自己定義に向けて編成されたナラティブ共同体の実践として捉え、そこに可能性を見出そうとする。そして、そのような視座から取り出される主体こそが、金井の言う「女/母(わたし)」である。これは森崎和江が言うような「胎児を孕んでいる女の一人称」という主体のあり方であり、近代的自我のように孤立しているわけでもなく、かといって関係性へと全溶解しているわけでもないような不思議な主体のあり方である。そしてそれはけっして「女/母」として一般化できるものではなく、この私のあり方と相即なものとして、すなわち「女/母(わたし)」として規定されなくてはならない。これが金井のスタンスである。
 リブの王道を理論的に継承しようとする金井の試みは注目すべきである。と同時に、男性である評者は、金井の言う「女/母(わたし)」からは拒絶されているような感を受けた。なぜなら私にとってそれは「女/母(あなた)」である以外にはなく、では私自身は「男/父(わたし)」ということなのか、という問いを突きつけられるわけであり、この次元での切り結びからしか前進はないというのが本書の根底的なメッセージであるように私には思えたのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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