ひとかたまりの肉体が存在することの権利

中山茂樹さんから、「人体の一部を採取する要件としての本人の自己決定」(『産大法学』40巻、第3・4号、2007年)をいただいた。生きている人体に侵襲を加えるときの、その侵襲を加えられる本人の自己決定について、憲法学の視点からいろいろ吟味した論文である。タイムリーな論考である。知的刺激が様々にあった。

その中に引用されている唄孝一の文章が印象深かったので、引用する。

要するに人間は人間としてのひとかたまりの肉体がここにあるというそのことだけで、その存在自体を権利として主張できる。しかも、それは精神と全く別のものでなく、精神もそこにくっついているいわば実存につながる。これは自由権とも社会権ともちょっととらえどころが違う。欲をいうと、その存在権という考え方に肉体のintegrityという要素をもう少し明確に加えて構成し直すと、この場面での人権の説明としてぴったりでないかと私は思う。(104頁)

オリジナルは、唄孝一「インフォームド・コンセントと医事法学」第1回日本医学会特別シンポジウム『医と法』(日本医学会、1994)とのこと(頁数表記が不可解なので未確認)。唄さんらしい思索だと思う。1994年というのは、フランスで生命倫理法が制定された年なので、その立法過程からの影響もあるだろう。今後とも役立ちそうな発想である。