宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風舎

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

2005年12月4日岐阜新聞ほか(共同通信)掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 トリッキーな言論で話題を振りまく社会学者の宮台真司と、新進気鋭の北田暁大が、がっぷりと四つに組んでしゃべりまくった対談である。二人は、互いの発言を横目で見ながら、自説を怒濤のように展開する。このドライブ感を楽しめるかどうかが分かれ目だが、評者は多くの知的刺激を受けながら読み進めることができた。
  まず北田が、宮台の思想的転向はほんとうにそれでよいのか、と詰め寄る。宮台は、かつてはブルセラ制服少女の生き方を称揚し、意味なんか求めずに、今をまったりと生きようと主張していた。ところが最近の宮台は、普通の人たちが、意味なきまったりとした日常をまともに生きるのは不可能だから、彼らが暴走しないでいられるような「何ものか」を、彼らに与えてあげなくてはならないと言いはじめている。そしてこともあろうに、「天皇」とか「亜細亜主義」を持ち出している。これはいったいどういうことか?と北田は問うのである。
  これに対して宮台は、人間を「バカ」と「バカでない者」に分け、自分の言う「天皇」「亜細亜主義」の言説は、「戦後バカ右翼」や「バカ右翼になってしまいそうな若人たち(笑)」に向けられているのだと主張する。宮台の推奨するステップをきちんと踏んでいけば、彼らが超越的なものに自己同一=依存して暴発するのを、防ぐことができるはずだ。そしてこの「右翼的」感性の底辺にきらめいている、世界の「根源的未規定性」への「開かれ」へと接続できるはずだと言う。
  これに対して北田は、無意味に耐えられない人々に何かの処方箋が必要なのは認めるが、それが「天皇」「亜細亜主義」である必然性はどこにもないのではないか、と反論する。そして逆に、「世界の無意味さ」を語り続け、それへとコミットし続けていくことのほうが大事じゃないのか、と訴える。
  世界を語り尽くそうというオブセッション(強迫観念)が気になるが、現代社会学の先端を味わいたい読者には格好の対談と言えるだろう。 

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