立岩真也『希望について』青土社

希望について

希望について

2006年8月『論座』9月号314〜315頁掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 この新刊は、立岩社会学への裏口からの入門書という仕上がりといえる。立岩は、一九九七年の大著『私的所有論』によって独自の地位を築いたが、その独特の文体のせいもあって、非常にとっつきにくい思想家だと思われてきた。だがこの本は、立岩が折に触れて書いた短い文章を集めたものなので、彼が何を問題にしているのかを、手軽に理解することができる。
  立岩は、ばりばり仕事をする人の側に立って社会を見るのではなく、まったく逆に、働けない人、働かない人の側に立って社会を見ようとする。そしてそういう人がまっとうに生きていけるように財を再配分するべきだと言うのである。
  このような視点が出てくるのは、立岩が長年、障害者運動の研究を続けてきたからである。みずから「生産」をすることができないとみなされてきた重度の障害者たちが、なんの負い目もなくまっとうに生きていける社会。そういう社会を構想したいという立岩の思いが、彼の社会学を支えているのである。
  たしかに、「働かない」ということは、この社会では負のラベリングをされている。しかし立岩は、日本のような社会は、必ずしもすべての人が働かなくても、充分にまわっていくだけの余裕をもった社会になっているはずだと考える。
  たとえば「失業」が問題となっているが、失業があるということは、「社会に全体として生産物がまずまず存在し、ゆえにこれ以上そんなに働かなくてもよい状態にある」ことを意味している。だからこれは基本的に好ましい状態なのである。失業者に対しては、余っている物資を再分配すればよい。
  また立岩は、「人が生産したその産物はその人のものだ」というジョン・ロックの思想に対しても果敢に挑戦する。たとえば、目の見える人が、目の見えることによって生産するあらゆる財を独占してもいいのだろうか、と立岩は問う。これは、「目の見えない人」は社会のなかでどのように位置づけられるべきか、という問いでもある。立岩は、目の見える人は、みずからが生産した財の一部を供出してまでも、目の見えない人がたとえば外を出歩くことを助ける義務があるのだ、と結論づける。リバタリアン自由至上主義者)ならば「善意」として処理するであろうものごとを、立岩はあくまで「義務」として確定しようとするのである。
  このような立岩の論に対しては、様々な反論がなされることであろう。立岩はそれらを意識してか、あちこちで周到な予防線を張っている。たとえば、失業者には再配分をすればよいというみずからの見解に対しては、「自分たちは働いて苦労しているのに、なぜ働かない人たちがそれらを受け取れるのか」という反論が来るだろうと予想したうえで、「そういう反論をする人は、みずから働くのをやめて、社会的分配を受け取る側にまわればよい」ではないかと挑発する。
  たしかに理屈のうえでは、そのような回答で問題ないのかもしれない。しかしながら、その反論の背後には、もっと根深いものが潜んでいるのではないだろうか。
  「働かない人が社会保障をされているのはおかしい」という発言の底にあるのは、働かない人が窮乏生活に落ちるのを眺めて「ざまーみろ!」と思うことによって、つらいながらも働かざるを得ない自分自身を慰撫したいという気持ちではないかと私は思う。そういう気持ちをもっている人間は、自分自身が他人から「ざまーみろ!」と言われるような立場にはけっして落ちたくないのである。彼らは、失職してそのような言葉を浴びせられるくらいなら、あくせく働き続けることのほうを選ぶだろう。このような心性の人間たち(すなわち大衆)に対して、立岩の理屈はたいした効力を持たないように私は思う。
  同じことは、格差社会におけるいわゆる「勝ち組」の人間たちに関しても当てはまるだろう。立岩は、経済的に余裕のある人間たちから財をよりいっそう供出させて、財がどうしても必要な人たちに再分配すればよいと主張するが、それは実際に財を過剰所有している階層の人々のこころを動かす力となり得るであろうか。そのような正義の理屈だけでは、彼らが既得権を死守しようとするエゴイズムの力に勝てないのではないか。立法や政策によって彼らの既得権を解体すればよいのかもしれないが、しかし立法や政策にタッチできる人々のマジョリティこそが、それら「勝ち組」の階層の人々なのである。
  それでもよい、正しいこと、正義にかなうことを、どこまでも「言い続けていく」ことこそが学の使命なのだ、というわけなのだろうか。それは、立岩社会学を、一種の宗教のようなものへと近づけていくことになりはしないか。「言い続ける」ことによってカタルシスを覚え、結果的に体制を補完する装置として機能するだけに終わってしまう危険はないのか。
  と、思わず先走ってしまったが、立岩はその危険性には充分自覚的であるように思える。既得権の件についても、体制側が既得権を維持しようとするときに、どう対処すればいいかを検討しなければならないと、立岩はちゃんと書いている。そのうえで言うならば、やはり現在の立岩社会学には、われわれのエゴイズムや欲望にどうやって介入するのかについての考察が不足している、と言わざるを得ないように私は思う。これは、立岩社会学へのひねくれたエールだと思ってもらえるとうれしい。

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