「正しく怒る」朝日新聞・生きるレッスン

本日夕刊の、『朝日新聞』全国版・夕刊(関西を除く)の「生きるレッスン」欄に、私の「正しく怒る」というエッセイが掲載されました。この欄の連載エッセイはネットには載せていませんが、今回はひさびさに転載してみます。

「正しく怒る」 森岡正博

昨年、原発事故が起きました。そのときの政府や東京電力の対応を見て、怒りがこみ上げてきた方も多かったはずです。人々のかけがえのない生活や故郷をいったいなんだと思っているのか、と。
同じ頃、遠いアラブの国々でも、独裁政権の圧政に対する若者たちの怒りが爆発していました。彼らは怒りのエネルギーを武器にして、果敢に戦いを挑み、多くの犠牲と引き換えに自由をつかみ取ろうとしています。
このように、不正なことに対して、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのは、人間にとってとても大切なことです。そして、それが大きな共感となって社会全体に広がるとき、社会変革のうねりが訪れるのです。
しかし同時に私たちは、「正しい怒り」の罠についても、きちんと知っておかなくてはなりません。「正しい怒り」で胸がいっぱいになると、「怒っている私こそが正しいのだ」というふうに、私を正義の側に置いてしまいがちになります。すると、私の正義を邪魔するものは「悪」である、という思考回路ができあがります。
それがさらにもう一歩進むと、「悪」である彼らに正義の裁きを加えて社会を良くしていくためならば、こっちだって少々の「小さな悪」を行なってもかまわないはずだ、となってしまうことすらあるのです。
歴史を振り返ってみれば、このような行き過ぎが何度も繰り返されてきました。そして「正しい怒り」で胸がいっぱいだと、なかなかそのような罠に気づけません。
すなわち、ほんとうの意味で「正しく怒る」とは、「不正は許せない!」という怒りによって動機づけられた自分の行為のひとつひとつが客観的に見ても「正しい」と言えるのかどうかを、たえず冷静に自己点検しながら、その怒りのエネルギーを上手に正義へと結びつけていくことではないかと私は思うのです。それができてはじめて、私たちはより良い社会を作っていけるのです。

字数制限もあって、十分には言えてませんが、大意は明瞭かと思います。

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