森一郎「死と誕生」

死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント

死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント

ハイデガーアーレント、九鬼の独自の解釈にもとづいて、被投性、出生、偶然の連関が議論される。というとなんだかめんどくさそうだが、アーレントの「出生」「誕生」の概念をキーにして、ハイデガーアーレントが言おうとしていたことを大胆に解釈するという試みとしてたいへんおもしろく読めた。

ハイデガーは、人間はこの世界に投げ出されていて、死へと先駆的に向かう存在であるという方向のことを「存在と時間」でしつこく強調した。しかしそこには、人間がこの世界に誕生した存在であるというもうひとつの突っ込みどころがあったにもかかわらず、ハイデガーはそれを意図的に軽視しているのである。森は、もしハイデガーがこの後者を突き詰めたとしたらどうなるかと問うて、そこに「出生性」と「始まりへの存在」という実存カテゴリーが発見されるはずであったと言う。ここはたいへんおもしろい指摘である。

それで、実はハイデガーの弟子のアーレントこそ、そこを発展させたということになる。アーレントは、自分がこの世界に生まれ落ちた「第1の始まり」と、いまここで複数性に裏付けられて活動を始める「第2の始まり」ということを言う。このふたつはつながっているというのだが、しかしそれはどうつながっているのかよくわからない、とされてきた。森はそれをつなげて考える思考実験をしている。そして共同で第1の始まりへと帰ることがいまここで未来に向けて進むあらたな始まり(第2の始まり)をもたらすというようなふうになっているのではないかと考える。

というわけで、ハイデガーアーレントがそれぞれ内在的には内蔵していたものの言語化できてなかった部分まであえて言ってみる、という試みとして貴重だと思った。ところで私自身は、第1の始まりと、第2の始まりについて、もっと違うように考えている。第1の始まりがずっと過去にあった、ということ自体がひとつの思いなしであるがゆえに、第1の始まりと第2の始まりを分けて考えることが間違っていると思うのである。そのうえで、このふたつが密接に関わっているということを、森とは違うふうに言おうと思う。そういう論文をいま書こうとしております。