宮台真司×森岡正博「「小さな世界」に閉じこもることが、なぜ悪いのか?」

雑誌『ちくま』の10月号で、宮台真司さんと対談しました。同じものが筑摩書房のウェブにも掲載されています。

筑摩書房から叢書ZEROシリーズが新発売されるのにちなんで、現在のメディア状況や、学知のあり方などについてざっくばらんに対話したものです。宮台さんとは何度かトークなどでしゃべったことはあるのですが、活字になるのはこれがはじめてかもしれないですね。奇しくも東西の公立大学の教員対談になりました。

――現代は、これだけメディアが多様化しているにもかかわらず、仲間ごとに小さくまとまり、内閉しているように見受けられます。その弊害をどのように乗り越えていけばよいのでしょうか。

宮台 まず押さえたいのは、論壇誌はなぜ凋落したのかということと、人文系のウェブサイトはなぜ活況を呈しているのか、です。
「オピニオン・リーダー」の概念で有名な社会心理学者ポール・ラザースフェルドが、一九五〇年代に「コミュニケーションの二段の流れの仮説」を提起します。それによると、世論形成において、メディアの影響力はダイレクトに個人に届くのでなく、まず小集団のオピニオンリーダー層に届き、そのリーダー層が集団内のフォロアー層に影響を与えます。
 この仮説の暗黙の前提は「社会的な場」です。かつて、オピニオンリーダー層とフォロアー層が意見を交わす場があり、オピニオンリーダー同士が意見をかわす場がありました。ハーバマスの言う「コーヒーハウス」や、サロンですね。論壇誌に載った難しい論文について「あれは難しかったな」と誰かが言うと、「いや、あれはね」と説明する人がいたわけです。でも、いまはそういう場が消え、結局、論壇誌自体が需要されなくなりました。
 逆にネットでは、アルファブロガーオピニオンリーダーの役割を果たし、ホットな論点を整理してくれています。でも、ネットは「摩擦抵抗の低いメディア」で、人の目を見られないといった「表出上の困難」や、ずっとイジメられてきたといった「尊厳上の困難」を隠せるので、誰でもコミュニケーションできます。だから、趣味が同じだとか、同じ話題やブロガーに興味があるといった、ピンポイントの共通前提で繋がれるのです。そう考えると、「コーヒーハウスを前提としたマスメディア」と違って、開かれた場にはなりにくい。それがいまのメディア環境ではないでしょうか。

森岡 私もほとんど同じ見方ですね。インターネットが出てきたときに、市民運動の強力なツールになると期待されましたけど、実際は宮台さんが言われている「島宇宙化」が起こっていますよね。
 例えば今年、臓器移植法の改正がありましたが、私も生命倫理の研究者として、参議院参考人になるなど発言をしてきました。残念ながら私の立場は否定されましたが、今回のように賛成と反対が極度に対立している場合、ネットは全然機能しないことを思い知りましたね。私と同じ考えの人は一瞬でつながって、最新情報も共有できる。でも、それは島宇宙になってしまい、外には届かない。と同時に、別の主張を持つ人たちが何を考え、どう動いているのか、部屋に座っているだけではまったくわからないわけです。
それは、論壇的な場が消えたからなんですね。そうした場があれば、Aという考え方と、アンチAという考え方があるということが可視化されて、優先的に議論すべき点や根本的な思想の対立点が何なのか、みんなで共有できる。政治的にはどちらかに決着が付くけれども、論争相手が大切にしていた点を織り込みつつ決着させるというソフトランディングができる。でも、今回はそれができなかった。それは、論壇的な場の喪失に加えて、ネット上で議論を彫琢する方法を我々がまだ見出していないということでもあります。
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http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/277/

2時間以上にわたる対談でしたが、編集者の方が要領よくまとめてくれました。まあ、雑誌では書けないようなこともいっぱいしゃべりましたけどね。なかなか楽しかったです。