遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』光文社新書

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

2006年8月27日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 生物の進化について書かれた本で、これほどまでにワクワクするものは、最近あまりなかったような気がする。この本の著者は、死んだ動物の解剖を専門とする学者だ。死んでしまったタヌキやアリクイを、ていねいにピンセットで解体していくことによって、その身体の内部に秘められた、生物進化数億年の秘密がありありと明らかになっていく。
  目の前に横たわった、なんの変哲もない動物の死体の中に、進化の途中で死に絶えてきた無数の生物たちの試行錯誤の歴史が、ちょうど一枚の絵巻物のように埋め込まれている。その事実に対する驚きと敬意が、著者の仕事の根底には流れているようだ。
  たとえば、我々の身体を支えてくれている「骨」について考えてみよう。それは、最初から地上動物の肉体を支えるために作り上げられたものではなかった。骨を最初に獲得したのは魚類である。では、その前はどうだったのかと言えば、クラゲやナメクジウオのような、やわらかくて、うねうねとした生物が海中を漂っていたのである。
  それらの海中生物が、生存に必要なリン酸カルシウムを、身体の内部に保存することを覚え始める。彼らは、必要なときにいつでも使えるように、体内にリン酸カルシウムの貯蔵庫を形成するのである。
  ところが、いったん貯め込んだリン酸カルシウムは、硬くて丈夫なので、魚類の身体をすばやく運動するための装置として使えることがわかってくる。リン酸カルシウムを背骨としてもつ魚類は、運動性の高い身体で泳ぎ回り、海を制覇することとなった。
  その魚類が、陸に上がって両生類となり、は虫類となったときに、骨は、全身にかかる重力を身体の中心で支える基本構造として、再活用されたのである。骨のおかげで、われわれ人類も直立歩行できるようになった。
  このように、最初は「ミネラルの貯蔵庫」でしかなかったものが、進化の過程で次々と別の用途に転用され、設計変更されていったのである。このような「行き当たりばったり」で「結果オーライでいい加減にすら見える進化」こそが、実は進化の常道なのだと遠藤さんは指摘する。
  どうやら生物は、それほど深く計算することなしに、手近にある体内材料をどんどん利用して、みずからの身体を内側から改造し、進化していったようなのである。「肺」もまたそのようにして作られた。
  海中の魚類は、エラをとおして水中の酸素を体内に取り入れる。だから、魚類に肺は必要ない。ところで、魚類は、体内に「浮き袋」をもっている。その中に空気を入れたり、そこから空気を出したりすることで、比重の調節を行なっているのだ。
  その魚類が陸に上がりはじめたとき、彼らは比重調節のために存在していた浮き袋を、エラのかわりに再利用しようとするのである。大気を浮き袋に入れ、そこから酸素を抽出して、血液中に取り入れるわけである。肺はこのようにして誕生する。
  ところが、魚類の心臓には、古くなった血液を強制的に肺に送り込む仕組みがなかった。そのためには、ポンプがもうひとつ必要となる。その問題を解決するために、心臓は、左心と右心から成る二部構成へと組み替えられた。しかしその結果、われわれの身体は左右対称の美を崩されることとなった。人間の解剖図を見ても分かるように、内臓の配置は左右非対称であり、まったく美しくない。
  そればかりか、われわれは陸に上がったおかげで、みずからの重力によって苦しめられるようになる。内臓は重みで垂れ下がり、肩の筋肉は休む暇もなく働き続け、慢性の痛みを訴える。巨大な脳を背骨一本で支えなければならなくなり、いつ椎間板ヘルニアになってもおかしくない。
  遠藤さんは、「人間」へと行き着いた進化の道筋を、「失敗作」だと考えている。遠藤さんがなぜそう思うのかについては、本書の結末をぜひ読んでいただきたい。しかし、失敗作にも、失敗作なりの存在意義があるはずだ。それを考えることが、きっと読者に課せられた宿題なのだろう。この地点で、理系と文系は交わることができるのだと私は思う。

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