吉田敏浩『反空爆の思想』NHKブックス

反空爆の思想 (NHKブックス)

反空爆の思想 (NHKブックス)

2006年10月8日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 イスラエルレバノン空爆したのは記憶に新しい。上空から狙いを定め、大量殺戮兵器を投下する。降り注ぐ爆弾は、軍事施設を破壊し、周囲の民間人を死傷させ、誤爆によって関係のない人々までをも巻き込む。レバノン空爆では、またしてもクラスター爆弾が使用された。一発の爆弾が空中で分裂し、無数の小型爆弾があたり一面にばらまかれ、地上を破壊し尽くす。地上に残された不発弾は、地雷となって、住民の生活を脅かし続ける。
  本書『反空爆の思想』は、空爆という戦争行為のおぞましさを徹底的にあぶり出し、そのどこが問題なのかを、血肉の通った言葉で浮かび上がらせようとした好著である。
  空爆とは、上空高く飛ぶ飛行機から、爆弾を投下することである。地上でいくら民間人が殺戮されようが、それを戦闘機のパイロットが直接に目撃することはない。そう、空爆とは、みずからの目と手を汚さないままで、敵を大量に死傷させることなのである。目と手を汚さないのは、パイロットに命令を与える司令部の指揮官も同じであろうし、その背後にいる軍部首脳や大統領も同じである。
  空爆は、味方の兵士の犠牲を最小限に食い止めながら、敵に与える被害を最大化するために発案された。上空から爆弾を次々と投下して、敵国の基盤を壊滅させるという戦い方は、第一次大戦西部戦線の悪夢を避けるための妙案として、大いに歓迎された。それは第二次大戦へと受け継がれた。その結果、イギリスで、ドイツで、中国で、日本で、大規模な空爆が繰り返され、いったいどれくらいの民間人が殺傷されたか分からない。その終着点が広島・長崎の原爆であったことは言うまでもない。
  しかし戦後も、空爆は地球上の至るところで続けられる。現代の戦闘においてもっとも避けるべきとされているは、自軍の兵士たちが死傷することである。それを回避するための切り札は、やはり空爆なのだ。そして、空爆による敵国人の被害は、「やむを得ない犠牲」だとして正当化される。自軍の兵士たちを守り、戦争を早期に終結させ、敵国の人々を解放するために必要な「ネセサリー・コスト」だとされるのである。
  著者の吉田さんは、この「やむを得ない犠牲」論こそが、最大の欺瞞だと主張する。それは大義の遂行のために付随する「やむを得ないこと」なのではなくて、あらかじめ周到に計算され、攻撃計画に理性的に組み込まれる「強制された流血と死」であるというのだ。たとえば、ピンポイント攻撃が、ある一定の確率で標的をはずして民間施設を「誤爆」してしまうことは、戦う前から分かっていることである。クラスター爆弾を使ったら、それが地雷となって人々の四肢を破砕し続けることは、あらかじめ分かっていることである。そのうえで、それらは攻撃計画に冷静に組み込まれているのである。
  そもそも「やむを得ない犠牲」とは何なのか。そこには、犠牲となって死んでいく人たち、そして肉親を殺された家族たちの生身の姿を見ようとする眼差しが存在しない。我が子を誤爆によって殺され、その子を抱いて血みどろになって病院へと駆け込む父親の姿。それを、「やむを得ない犠牲」として総括することがいかに欺瞞に満ちているかを、吉田さんは怒りをこめて指摘する。
  ブッシュ大統領は、「戦争には死傷者がつきものだが、大統領はそれに耐えなければならない」と言う。しかしそのときの「死傷者」の中に、ブッシュ大統領自身の家族や肉親はけっして想定されていない。ここにこそ「欺瞞」の核心があると吉田さんは言う。
  まさにそのとおりだろう。誰かのいのちや利益のために、自分の愛する家族が「やむを得ない犠牲」として計画的に殺されたとしたら、あなたはいったい何を感じるか。この一点にこだわって、殺される側の人々、殺された人々の家族たちを、国境を越えて結びあわせるところから、「反空爆の思想」は立ち上がってくるのだと本書は訴える。みずからの欺瞞から目をそらさないこと、そして人間であることの感情を共有していくこと、そこにのみ希望が残されているのだろう。多くのことを考えさせられる読書体験であった。

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