フッサール・起源への哲学2

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)

フッサール最後の境地「生き生きした現在」は、記号的観点から見るときに、「不在」であるということになると斎藤さんは言う。

これは「充満し・充溢する空」としての「時」(すなわち第一の意味での「生き生きした現在」)の次元の発見を経由した後の視点から見れば、こうした「空」としてのある種の「力」(趨勢)を中核に担う<現象すること>の全体(すなわち「世界」)が現に与えられているにもかかわらず、それがどこで・どのように与えられているのかを示すことができない、という自体にほかならない。(284頁)

だから、世界の「起源」というものは、ないことになる。

「生き生きした現在」あるいは「生世界」とも形容されるこの「空」(すなわち「超越論的主観性」)は、みずからの限界を画する「死」をもたない「無限なるもの」(「限定(界)なきもの」という意味での)なのである。
 フッサールは次のように述べている。
「超越論的な原初的生は無から生成することもできなければ、無へと移行することもできない。それは不死なるものである。というのも、死ということがそれにとってはいかなる意味ももたないからである」(Ms.KIII,6)。(285−286頁)

フッサールのこの言葉は、フッサールの試行を思うとき、けっこう胸に響くものがある。後期ハイデガーはこれをどう聞くのだろうか。斎藤さんの本書の思索は、フッサールか斎藤か不分明なものになっている。と同時に、「無の場所」を言っていた西田を彷彿させる気もする。

私自身は、生の湧出(「生き生きした現在」が指し示すもの)の「終わり」はあり得ると思う。湧出の「後」、湧出の「前」、湧出の「背後」はないとしても、湧出の停止としての「終わり」はあり得る。その点で、フッサール@斎藤とは袂を分かつことになるかもしれない。