イビチャ・オシム『日本人よ!』

日本人よ!

日本人よ!

2007年7月8日熊本日々新聞掲載

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

 日本のサッカー人気は、もう定着したとみてよいだろう。なかでも、日本代表チームの注目度はダントツである。監督は、昨年のワールドカップのときのジーコから、現在のオシムへと変わった。旧ユーゴスラビアからやってきたこの知将の言葉は、まさに知性に溢れていて、読みごたえがある。
 オシムが指摘する、日本のサッカーの問題点のひとつは、日本のサッカークラブが、欧州の超有名クラブの模倣ばかりしようとすることだ。もちろん欧州のサッカーが世界でもっともレベルが高いのは言うまでもないし、日本で成功した選手たちは、欧州に渡ってプレーすることを望む。それはそれで有意義なことである。
 しかしながら、欧州の超有名クラブがやっていることを、そのまま日本にもってきても、うまくいくわけではないとオシムは言う。なぜなら、彼らには彼らなりの体格や文化伝統があって、そのうえであのような華麗なプレーができるのであるが、それと同じ肉体的・文化的基盤がない日本で真似したとしても、同じ花が咲くわけではないからである。
 そんなことよりも、いま最も大事なのは、日本人が備えている特徴やポテンシャルを、もっともっと引き出していくことだ、とオシムは言う。それは動きの敏捷性であったり、スピーディーな組織的展開であったりするのだが、それらをさらに強力に開花させて、欧州の彼らとはまた違った花を咲かせるべきだと言うのである。そのことをオシムは、「日本のサッカーの日本化」と表現する。
 しかし、そういう目で日本サッカーを見たときに、いつかの弱点が浮かび上がってくるのもまた事実である。その最大のものは、日本人選手たちが、自分の頭で考えようとしないことだ。サッカーでは、試合中に監督が細かく指示することができない。だから、ピッチ上で何か状況変化が起きたときには、選手ひとりひとりが自分たちの頭で瞬時に解決策を考えて、それを実行していかねばならない。ところが、日本人選手はその能力がきわめて乏しい、とオシムには映るのだ。
 日本人選手は、日頃から、監督の言うことをよく聞いて、それを忠実に実行するように訓練づけられている。であるがゆえに、監督が指示しないと何もできないような人間に育ってきているというのだ。ところが、現代のサッカーは、それでは勝てない。ピッチ上で生じた新事態に対して、選手たちが自分の頭で考え、お互いにその場で自発的にコミュニケーションはかることによって、戦術を自分たちで内側から組み替えていく能力が問われるのである。
 日本人選手に自発性が見られないのは、日本の教育の問題だとオシムは指摘する。日本では、子どもたちの小さなミスを発見して、それに罰を与えるという教育が積み重ねられてきた。その結果、日本人は、リスクの高いことをみずから進んでトライしようとしなくなる。事なかれ主義になってしまうのである。それが日本の教育システムの限界であり、現在の日本サッカーの限界でもある、とオシムは言うのだ。
 さらに、日本人は一般に目上の者に意見することを好まない傾向にあるが、それもまたサッカーの世界に持ち込まれていて、選手が監督に意見することがきわめて少ない。これもまた日本サッカーの限界である。欧州では、選手間や、選手と監督のあいだで、緊密なコミュニケーションがとられている。日本と欧州の実力差というのは、実は体格や技術なのではなくて、このようなコミュニケーション面での未熟さにあるのではないか、というのがオシムの見立てである。
 私がどきっとしたのは、オシムの言う「リスペクト」の意味だ。オシムによれば、リスペクトとは、単に相手に敬意を払うことだけを指すのではなく、相手のチームを客観的に見通すことをも指す。相手が強豪ブラジルであろうが、弱小国であろうが、過大評価も過小評価もせずに、そのありのままの実力をしっかりと認識していくこと、これが相手に対するリスペクトだというのである。
 このようなことは考えてもみなかったので、脱帽してしまった。このあたりにオシムの真の知力が潜んでいるのであろう。

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