磯村健太郎・山口栄二『原発と裁判官』

原発と裁判官 なぜ司法は「メルトダウン」を許したのか

原発と裁判官 なぜ司法は「メルトダウン」を許したのか

これまでの日本の原発訴訟において、裁判官はどう考え、どう判断してきたのかを(元)当事者たちへのインタビューによって浮かび上がらせた本である。福島の原発事故の前と後では、原発訴訟に対する市民の意識もがらりと変わったであろう。なによりも、これまでの原発訴訟を裁いてきた裁判官たちがいちばん困惑していることだろうと想像するが実際はどうなのだろうか。

これは東京電力柏崎刈羽原発第一号機訴訟(新潟地裁)裁判官であった西野喜一さんの言葉である。

行政事件や労働事件、国家賠償事件、公安事件などで、国家の意思にそぐわない判決を出すと、自分の処遇にどういうかたちで返ってくるだろうか。そのように考えるのは組織人として自然なことです。原発は国策そのものである、という事実が裁判官の意識に反映することは避けられないと思います。無難な結論ですませておいたほうがいいかな、と思うことは、可能性としては十分にありえます。(84頁)

国策の推進という方針に沿った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります。(85頁)

もんじゅ訴訟高裁判決では国が敗訴した。そのときの裁判長であった川崎和夫さんはこのように言う。

国を負かすことへの抵抗は、そんなにはなかった。国策に反する判決をするから重圧を感じたかというと、そんなことは感じませんでした。しかし、『変な判決を書いたヤツだと思われるだろうなあ』という思いはありました。『川崎、ばかだなあ』と言われる気がして・・・。それがプレッシャーといえばプレッシャー。だって、それまで原発訴訟で国や電力会社側を負かした判決を出した裁判官はいなかったわけですから。(145頁)

しかしながら、その後の最高裁ではこの判決が控訴棄却となり、くつがえされたのだった。その背景にある「調査官」の実態など、なかなか興味深い。高裁の裁判長である川崎さんが、判決文を書くときに、最高裁判事に向けたメッセージ(ちゃんと勉強してほしい!という)を忍び込ませていたということには軽い衝撃を受けた。