『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』

生者と死者をつなぐ: 鎮魂と再生のための哲学

生者と死者をつなぐ: 鎮魂と再生のための哲学

2月20日頃に書店に並ぶ予定の拙著「生者と死者をつなぐ」の冒頭部分のナレーションを作っていただきましたのでリンクします。春秋社のウェブサイトからも行けます。書籍のナレーションでの紹介ビデオというのはあまりないみたいですね。初めての試みで不思議な感じです。

書籍情報を以下に再掲しておきます。

ひさびさにエッセイ集『生者と死者をつなぐ:鎮魂と再生のための哲学』(春秋社、1600円、2月20日頃発売)を刊行します。これは、311の大震災の前後の1年間に書いた新聞エッセイをもとに、大幅に書き下ろしを加えたものです。半分以上が書き下ろしになっています。新聞に発表されたエッセイとしては「日経新聞」に2010年の半年間連載していたコラムが中心となっています。いまから振り返れば、あのときに書いていたコラムは、なにか311を予感していたかのような鎮魂の雰囲気に包まれていたように思います。この本では、亡くなった者は、死者となってふたたびこの世に現われ、生者と交流するという死生観を、宗教の次元ではなく哲学的次元において描き取ろうとしました。その線上で「哲学的アニミズム」の構想も打ち出しています。また、美術、アートについてのまとまった文章が収められていて、いままでにない感じの仕上がりです。個人的には、前著の『33個めの石』よりも良い本になったと思っています。

エッセイとはいえ、けっこう密度が高くて濃い内容になりました。これからの私の哲学の展開の基盤になるであろう発想やヒントや断片がたくさん詰め込まれています。エッセイをただ並べたのではなくて、本全体としての統一感と進行に細かく気を配りました。刊行の折には、ぜひ書店で手にとって眺めてみてください。

以下に、目次と、「第1章」の冒頭の3つのエッセイと、「あとがき」を貼り付けておきます。

生者と死者をつなぐ
鎮魂と再生のための哲学
目次

第1章 永遠なき世界

・私たちと生き続けていくいのち
・永遠なき世界
・看取りと鎮魂
・混ざり合う自己と他者
・世界五分前仮説
・時間の流れの真の意味
・誕生肯定
・回復とは何か
・ダイヤモンドと希望
・暴走列車の思考実験
・夕暮れのキャンパス
脳死移植を考える1
脳死移植を考える2
脳死移植を考える3
石川啄木と子どものいのち
樹木葬
・絶えざる再生
・哲学的アニミズム

第2章 美しきものの記憶

・美しきものの記憶
・過激な美術教師
・ルソーの魂の連鎖
岡本太郎と「明日の神話
・爆発する岡本太郎
オノ・ヨーコの祈り
・レディーメイドの力
・少女アリスの誘惑
・ドイツで聴いた「赤とんぼ」
・クールジャパンの衝撃
・水晶の夜のコンサート
・虐殺跡地の音楽ホール
・想像の音響世界を求めて
・音マニアのこだわり
・埃との戦い
・鳥と「ざわざわ」
・樹海で思ったこと

第3章 私たちはなぜ生きるのか

・十字架の意味
・悟りと身体
・死へと向かう男性性
・「男らしさ」からの解放
・草食系男子と日米安保
・愛情の哲学
・一生かけて楽しむ体育
・走る大学教師
・理系への文系教育
・家畜という幸せ
捕鯨を考える
原発有機農業
・植物工場
・自然支配の究極の目的は
・宇宙船と生命
・自然保護の二面性
・無痛文明と自傷行為 1
・無痛文明と自傷行為 2
・不幸になる自由
・長生きは幸せか
・哲学はゼロからの出発
・わが友なる哲学者
・先人から学んだ「生きる意味」
・死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか

あとがき

私たちと生き続けていくいのち

 二〇一一年三月一一日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。
 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。
 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。
 たとえばふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。
 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なるものとして閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。

永遠なき世界

 私はなぜ生きているのか、時はどうして過ぎゆくのか。過ぎ去った時は、もう二度と戻ってこない。私たちはもう以前の世界には戻れない。震災以前の世界に戻ることは不可能である。
 私たちは映像で見た。建物を破壊しながら怒濤のように迫り来る津波の果てしないエネルギーを。建物を飲み込み、車を飲み込み、そのなかに生きていた人々を飲み込んでただひたすら前進してくるそのとめどない濁流を。
 それは私たちの記憶に抜きがたく刻まれた。夢の中に繰り返し現われて、夜中にはっと目覚める、そのくらいの強さでそれは刻み込まれた。
 阪神淡路大震災では人々は火の海に焼かれた。東日本大震災では津波に呑まれた。津波の映像を見ているうちに、私の身体から書くエネルギーが奪われていった。それから一ヶ月のあいだ、私は一枚も原稿を書くことができなかった。
 阪神淡路のときもそうだった。今回も同じことが私に起きた。前に向かって進むことができない。人生を不条理に絶たれた人たちに向かって、私は何を言えばいいのか、何を書けばいいのか。それは私の哲学の大きなテーマであるがゆえに、私はエネルギーを失った。
 自転車に乗って、夕暮れの電車沿いの道を走ってみる。私が被害を受けなかったことをさも重大なことのように考え、みずからの倫理的責務についてあれこれ思考をめぐらせることそれ自体が、汚いことのように思われる。私はこうやって以前と変わりなく生きている。私にできることは、この生をいまここで生き切ることではないか、という考えすら欺瞞のように思えてくる。
 いま、あの向こうのビル群が決壊して、巨大な津波が押し寄せてきたとしたらどんな感じだろうか。それは水しぶきを上げながら、ゆっくりと木造の家々を飲み込んで、こちらに向かって迫ってくる。私は自転車を降りてその様子をただじっと見つめる。足元にすばやい水流が押し寄せてきて、自転車もろとも流される。あっという間に何メートルもの濁流が私を包み込み、目の前が暗くなる。水のかたまりが鼻と口から有無を言わせず入ってきて、私は窒息する。頭に何かがはげしくぶつかり、私はそのまま失神する。
 あのとき、人々はこのようにして死に至ったのかもしれないし、もっと別の経験をして死んだのかもしれないし、何かの方法で生き残ったのかもしれない。しかし私は彼らに近づくことはできない。これは私の想像であって、彼らの経験したであろう現実ではない。
 私はなぜ生きているのか、時はどうして過ぎゆくのか、私はなぜ他人になれないのか、私はここに哲学の最重要課題を見る。
 いま私にできることは、この問題を何度も考え抜いて、言葉で表現できるぎりぎりのところまで迫っていくことだ。小さな思考の断片を数珠のようにつないで、なにか大きなものの輪郭を描いていくことだ。

看取りと鎮魂

 車道のガードレールに、花が供えられている。通るたびに新しくされているから、誰かがいつも花を入れ替えているのだろう。おそらくは交通事故で亡くなった家族か友人のために供えられたのだ。
 若いときには、このような光景を冷ややかな目で見ていた。亡くなってしまった人は、もうどこにも存在していないのだから、お花を供えてあげてもその人に届くわけでもない。あれは花を置く人の自己満足にほかならないのだ、と。
 しかし時を経て、親しかった人が亡くなるような年代にさしかかってくると、また別の感慨を抱くようになった。亡くなった人は死んでしまってはいない。その人は生きていたときとは別の形で、私たちの世界の片隅で存在し続けているのだと感じるようになった。いまの私の世界を形作る必要不可欠のピースとして、亡くなった人はいまもここに存在し続けているのだ、と。
こうの史代のマンガ「夕凪の街」(『夕凪の街 桜の国』双葉社 二〇〇四年)は、原爆投下後一〇年目の広島を舞台に、若い女性、皆実の短いラブストーリーを描いた作品である。ベストセラーとなり、映画化もされたので、ご覧になった方も多いだろう。
 皆実は、原爆投下後ようやく復興し始めた広島で働いている。ある日、思いを寄せてくれる男性、打越さんから帰り道にハンカチをプレゼントされ、二人は橋のたもとで口づけをする。皆実はそのとき、川を流れる無数の焼けただれた死体の幻影を見る。
 皆実は、原爆投下直後の広島で、行方不明の父と妹をあてどもなく探していたことを思い出す。生きていた姉も、投下二ヶ月後に病気で亡くなった。皆実は自分だけが生き延びたという気持ちから抜け出せない。
 デートのあと皆実は次第に弱っていく。いろんな人が見舞いにくる。打越さんもやってきて手を握る。そうして少しずつ意識が薄らいでいき、皆実は静かに息を引き取る。そういう物語である。
 ストーリーだけを見ると、救いのない話のように感じるが、私はたくさんの思いをこの作品から酌み取ることができた。
 広島の原爆は、一瞬にしてたくさんの人命を奪った。そのなかには、皆実のように、これからまさに青春を開花させようとしていた若者も多く含まれていたはずだ。彼らは好きな人とデートすることもかなわずに、この世を去った。家族に別れを告げることもできず、誰に看取られることもなく死んでいった。
投下後の広島で生き延びた皆実は、原爆によって瞬時に死んでしまったこのような無数の人たちによって、いくばくかのいのちを与えられたのである。若くして死んでいった彼らの無念の思いをかなえるかのように、皆実は恋人との逢瀬を経験し、心をときめかせ、そして母親と二人暮らしの温かな家庭で、みんなに看取られながら息を引き取ることができた。
 皆実は優しく看取られながら亡くなり、そしてそのプロセスを読者もまた追体験する。読者をも含めたその営み全体が、看取られることなく瞬時に死んでしまった無数の人々への、鎮魂の行為となる。
 それは道路にそっと花を手向ける気持ちと相通じるものであり、宗教のありなしを問わず、私たちの生が死者とのつながりのうえに成立していることを再確認する作業でもあると私は感じたのだった。

*  *  *

あとがき

 死んでしまった人たちは、姿を変えて、私たちの前に戻ってきているのではないか。だから、私たちは死んでしまった人たちに見守られて生きているのであり、ときおり彼らと対話することすらできるのではないか。そのような経験に支えられることで、私たちはこの世界をより良く生き抜けるのではないか。この本を書いているうちに、こういった考え方が私の身体の中を満たしていった。本書のタイトルの「生者と死者をつなぐ」とは、そのような意味である。
 私は、死後の魂を信じていない。死んだあともどこか空中にとどまってこの世界を見下ろしているボールのような存在がある、とは思っていない。
 しかしそれでもなお、死んでしまった人たちは、魂という形ではない別の姿を取って、私たちの前に現われるというのが私の言いたいことなのだ。生きるとは、死者とともに生きることである。この本において私が読者と共有しようとしたことを、私は「生命の哲学」という名で呼びたいと思う。大震災を体験したこの地から、新たな「生命の哲学」を世界に向けて生み出して行かねばならない。
 収められたエッセイのうち、約半数は、大震災以前に書かれたものである。そのほとんどは二〇一〇年の『日経新聞』「プロムナード」欄に連載された。読者からの反響も多く、本書に収録するにあたっては、それらの声を取り入れて細かく書き直した。『朝日新聞』『高知新聞』に掲載されたエッセイも入っている。
 残りの約半数は、この本のために書き下ろしたものである。生とは何か、死とは何か、私はなぜ生きなければならないのか、というテーマを螺旋階段のように掘り下げようと試みた。たとえば、「死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか」という問いや、衝撃的な出来事によって人生を破壊されてしまった人間にとっての生きる意味とは何かという問いや、あらゆるものにいのちがあるという「アニミズム」を哲学的に捉えるとどうなるのかという問いについて考えてみた。それらの思索は、まだ芽生えたばかりの若芽のような段階でしかないけれども、これから時間をかけて大樹に育ててみたいと思っている。
 この本のバックボーンをなす哲学に興味のある方は、最近の私の論文「誕生肯定とは何か」(二〇一一年)と「パーソンとペルソナ」(二〇一〇年)を読んでいただければ幸いである。ともに学術論文であるが、哲学を専門としない読者にも面白く読んでいただけると思う。インターネットで検索すれば全文をダウンロードすることができる。
 前著『33個めの石』に引き続いて、春秋社のSRさんに編集を担当していただいた。的確なアドバイスによって良い本に仕上がった。感謝したい。

追記:りんごさんが、twitterで、この本の書店配備状況の写真をたくさん公開してくれています。
https://twitter.com/MMORIOKA_BOOKS

追記2:『毎日新聞』2012年5月20日(朝刊)書評欄:
 生命倫理ジェンダーについて発言を続ける哲学者が、東日本大震災脳死移植から音楽や現代美術まで、幅広くつづったエッセイ集だ。
 60編に通底するのは生命にまつわる思索であり、読み進めると「死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか」という問いに行きつく。
 人は死を宿命づけられているが、普段はそのことを直視せずに生活している。ところが思いがけない不幸に見舞われたり、幸せを実感できなくなった時、「なぜ生きなくてはならないのか」と自問する。
 その答えとして提示されるのが「誕生肯定」という考え方だ。<生きている人たちや、亡くなった人たちや、自然の中でうごめくいろいろないのちを内部に取り込むことによって、私は生きているのである。>
 そうした認識を著者は「哲学的アニミズムの生命観」と呼ぶ。そこに立脚し「生まれてきて本当に良かった」という誕生肯定を広めることを哲学者の責務と自任しているのだ。
 大震災、東京電力福島第一原発事故という危機に直面しながら、哲学は社会に対して何ができるのか。その問いに答えようとする真摯な姿勢が伝わってくる。(終)