玉城康四郎、出会いと別れ、形なきいのち(半歩遅れの読書術・4)

ダンマの顕現―仏道に学ぶ

ダンマの顕現―仏道に学ぶ

2008年3月23日日経新聞掲載

 本との出会いが、人との別れにつながることもある。
 大学院生のときに、授業でもっとも熱心に読んだのは、道元の『正法眼蔵』であった。私は中村元先生の『仏教語大辞典』(東京書籍)と、玉城康四郎先生による正法眼蔵の現代語訳(中央公論社・日本の名著)を左右に置きながら、道元の魔物のような文章を読み進めていった。
 とりわけ、玉城先生の現代語訳はきわめてクリアーで、ぐいぐいと引き込まれるものを感じた。
 私が入学したときには、すでに玉城先生は退官されていたので、学生時代にお目にかかることはできなかった。その後、テレビで先生のお顔を拝見することがあった。なにか憑かれたように「地獄」の話をするその姿は、異様な雰囲気に包まれていた。
 それから歳月が経ち、私は研究者となり、あるときテレビの宗教番組に出演して、生命倫理についてしゃべった。それからしばらくして、知り合いの編集者のN氏が、「玉城先生が森岡をテレビで見て興味をもっておられるようだ」と知らせてきた。私が驚愕したことは、言うまでもない。
 私はN氏の仲介で、玉城先生のご自宅を訪問することにした。N氏は、先生の近著である『ダンマの顕現』(大蔵出版)を送ってくれた。私は、さっそく読んだ。
 一読して心臓を貫かれる思いがした。玉城先生が仏道に目覚めてから七十九歳に至るまでの、自身の座禅体験が、あからさまに綴られていたのである。悟りの大爆発があったかと思えば、それはすぐに暗黒の世界に後戻りして、へどろの海に沈む。
 座禅によって明らかになるものは、「限りない過去から、あらゆるものと交わりつつ、生まれかわり死にかわりしながら、いま、ここに現われる宇宙共同体の結び目であり、しかもその根底は、暗黒であり、あくたもくた、へどろもどろである」と先生は書く。そして七十八歳の一二月、形なきいのちが私の全人格体に充満し、大瀑流となって吹き抜けていった、と。
 私はN氏とともに、玉城先生を訪ねた。先生は非常に柔和な方だった。私は先生としゃべりながら、しかし自分がいかに先生の本から決定的な影響を受けたかを言い出せずに終わった。
 その後しばらくして、先生の大往生の報が届いた。私の思いを伝える機会は失われた。どうしてあのとき言えなかったのかという後悔の念が湧き起こるとともに、形なきいのちはもうすでに先生をとおして私にまで伝ってきているとも感じたのだった。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


                                                                                                            • -

森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)
http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm
◆LIFESTUDIES.ORG/JP
http://www.lifestudies.org/jp/