『まんが哲学入門』刊行記念・まんが原画を描いてみた! Youtube

『まんが哲学入門』刊行一ヶ月記念に、主人公である「まんまるくん」と「エム先生」の登場するまんが原画を描く動画をアップしてみました。

3分以内に描き上げようと、猛スピードでやったのですが、結局4分以上かかってしまいました。『まんが哲学入門』を描くときには、1ページ30分以上はかかりました。前後の文脈を考えながら内容を構成するのに、すごく時間がかかったなあ。まんが原画も、けっこう細部まで緻密に塗り込んだりもしました。

森岡正博『まんが 哲学入門』(講談社現代新書)

7月18日に講談社現代新書から、

森岡正博(原画・文章)/寺田にゃんこふ(作画)
『まんが 哲学入門 ―― 生きるって何だろう?』講談社現代新書

が発売されます!!

この本の画期的なところは、

哲学者(=森岡)自身が、220ページのコマ割りのあるマンガ全編の絵を描き下ろしたこと。
・過去の哲学者の思想の紹介や、哲学史の紹介をマンガでしたのではなく、「時間」「存在」「私」「生命」の4テーマについての著者自身の思索が描かれていること
・左開きで、吹き出し文字が横書きであること。これは、日本のマンガの伝統破壊なのである。

というあたりです。マンガの版下は、プロの漫画家の寺田にゃんこふさんに作成していただきました。すばらしい線です。

原画(森岡正博

作画(寺田にゃんこふ)

その他のいくつかの原画と版下は、
http://www.lifestudies.org/jp/manga/
で見ることができます。

本の目次は、こんな感じです。

目次
第1章 時間論
第2章 存在論
第3章 「私」とは何か
第4章 生命論
読書案内

まんがで描かれているので、どこまでもどんどん読んでいけますが、内容はかなり濃いですよ。存在物を存在せしめる「存在させるはたらき」や、この私を突き詰めていったときに垣間見える「独在者」などもテーマになっています。哲学のハードプロブレムを扱っているのです。

では、本のあとがきの一部を紹介します。

あとがき

「マンガで哲学入門を書いてみたい!」
そう思った私は、コピー用紙に20頁ほどマンガの下書きをして、講談社現代新書の編集部に持ち込んだのでした。それがもう3年ほど前のことです。それ以来、時間があるたびに、少しずつマンガを描いてきました。最初はぎこちなかったマンガのキャラクターも、しだいに滑らかに動くようになり、最後には自己主張すら始めました。
私は鉛筆を使って、約220頁分の原画を細部まで描き込みました。漫画家の寺田にゃんこふさんは、この原画にプロの線を与えてくださいました。今回、講談社現代新書の形で出版ができるようになったのは、ひとえに寺田さんのおかげです。
これまで、過去の偉大な哲学者たちの思想を解説するマンガ本はたくさん出版されてきました。哲学者がストーリーを考えたり、解説文を書いたりしたマンガ本もありました。しかしながら、哲学者自身が、みずからの哲学的な思考を、全頁マンガで描き下ろした本は存在しなかったように思われます。マンガやイラストを描ける哲学者はたくさんいるでしょうから、いままでこのような本が出版されなかったのは不思議なことです。
タイトルにあるとおり、この本は哲学入門です。「哲学とは何か」「哲学的に考えるとはどういうことか」について、一般読者を対象に書いてみました。この本は、有名な哲学者の学説をわかりやすく解説するというスタイルをとっていません。そのかわりに、「時間」「存在」「私」「生命」という4つの大テーマについて、私自身がどういうふうに考えるのかを、できるだけわかりやすく表現してみました。この道をたどることで、読者のみなさんは、一気に哲学的思考の核心部分へと導かれることになります。そのスピード感と密度をたっぷりと楽しんでみてください。
過去の哲学者を引き合いに出して、「誰々はこう言った、それを図にするとこうなる」というような解説文をひたすら読んでいくよりも、哲学的な思考のダイナミックな進み方を視覚的に追体験していったほうが、哲学の本質にすばやく迫ることができます。哲学とマンガは、ほんとうは相性がいいのです。また、この本では、まんまるくんと先生が対話する形で話が進んでいきます。プラトンの書いた哲学書も、ソクラテスとその弟子たちを主人公とする対話で進んでいく物語でした。この、哲学の王道である対話を効果的に表現するための技法として、マンガはぴったりなのです。私は物心ついたころから、マンガで育ちました。マンガ的な表現方法は身に染みついています。マンガだからと言って軽蔑する人は、もうほとんどいないでしょう。
すでに哲学に親しんでいる方は、この本のあちこちに、過去の哲学者たちの有名なテーゼをたくさん見いだすことでしょう。しかしそれらはしだいに、私自身の思索へと結びつけられていきます。この本は入門書ではありますが、しかし同時に、私自身の思考を展開した本でもあるのです。私がいま構想している「生命の哲学」のおおまかな全体像を、マンガ哲学入門という形で先取りして示すことになりました。
もちろん入門書という制限があるので、ひとつのテーマに立ち止まって深く穴を掘っていくことはできませんでした。もっと突っ込んで考えてみたかった箇所が、ほんとうにたくさんあります。言及できていない説も山ほどありますし、きわめて独断的な主張もあります。「どうしてこの点を論じていないのか!」と思われることがあるかもしれません。しかしそれらについては、今後の著作できちんと考察しますので、いまは許しておいてください。

(中略)

 最後に、私がこのマンガをどうやって描いたかを紹介しておきましょう。
 まず、A4のコピー用紙に、黒鉛筆のフリーハンドでコマ割りをして、そのままキャラクターと吹き出し文字を書いていきます。全体を描き終わったら、背景に線を入れたり塗ったりして出来上がります。描き直すときには、消しゴムでひたすら消して、やり直します。ワープロとは違って消去ボタンもないし、カットアンドペーストもできないので、非常に効率の悪い作業となりました。丸一日かけても、だいたい7頁くらいしか進みませんでした。しかし、ほんとうに楽しい時間を過ごすことができました。

(中略)

 私にとって、この本は大きな実験であり冒険でした。それが終わったいま、すがすがしい気持ちに満たされています。なお、本書の第二部に本格的な読書案内を付けました。堅苦しくなく、面白く読めるように書いてみましたので、ぜひ楽しんでください。

というわけで、今度の新刊は、まんが哲学入門です! 「感じない男」→「草食系男子」→「まんが」、こういう展開を想像した読者はほとんどいなかったのでは? 

また、巻末に、古今東西哲学書を取り上げた、長大な「読書案内」を付けました。これは単独の読み物としても、かなり面白いのではないかと思います。

本書についての追加情報は、twitter
https://twitter.com/Sukuitohananika
にて書いていきますので、フォローしてみてください。

西垣通『集合知とは何か』

2013年4月7日日経新聞掲載

インターネットを通じて、多くの人たちが、自分の感じ方や考え方を公開している。それら無数の声を自動的に集めてきて、人々の集合的な意見を吸い上げ、政策に生かしたり、ビジネスに役立てることができるという話が世間に出回っている。

しかしながら、そのような楽観論には乗らないほうがいいと西垣は言うのである。

もちろんインターネット上の「集合知」がすばらしい働きをすることはある。たとえば、次の選挙で誰が当選するかを、大勢の人たちに実際に賭けさせて予測するシステムは、かなりの確率で正解を出してしまうのだ。

だが、それがうまくいくのは、あくまで条件が整備された課題に限られる。たとえば、これからの政治をどのように運営していけばいいかをネット上の集合知にまかせたとしても、混乱をまねくだけであろう。

集合知」の考え方は、社会の中の人間たちを、信号の出し入れをする単に多様なだけの無数の他律的な処理マシンのようにとらえるのである。西垣によれば、そんな浅い人間観では社会を正しく見ることなどできない。

西垣は、これからの社会を見ていくときのキーとなるのは「オートポイエーシス」の考え方であると言う。社会の中の人間は、まずは自分だけのリアルな内面世界を生きているのであるが、そこへ新たな情報が到来したときに、それを取り込んで、みずからのこれまでの記憶と照らし合わせ、自分の全体を内側から一気に作り直して新しい姿にしていくはたらきを持っているのである。

そして内面世界を新しくした人間は、対話によって現実へと関与し、コミュニケーションの作動の中にふたたび織り込まれていく。そのダイナミズムを正確に捉えないかぎり、社会の行き先など読めるはずがないのである。

その視点からシミュレーションすれば、社会にはある程度の不透明性があったほうが安定するなどの知見が得られる。ビッグデータを集めればなんとかなると言ったバカげた主張にうんざりしている人が手に取るべき哲学書である。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP
http://www.lifestudies.org/jp/

『決定版 感じない男』(ちくま文庫)


感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

2005年に、ちくま新書から刊行された『感じない男』は、ネットを中心に圧倒的な反響があり、その後読み継がれて男性学の古典の一つとなりました。そしてちくま新書版が品切れになったのを機に、このたび、ちくま文庫で再刊されることとなりました。

発売は4月10日ですので、ぜひ書店で手にとってみてください。この本のうわさは聞いていたけれども書店にないので見たことがないという方も、4月中は書店の文庫棚にありますので。

文庫版には、「感じない男はその後どうなったのか」という長めの補章が付け加えられています。その中から一部を紹介します。

補章 第2節より

 ・・・・・
 そもそも私がこの本を書こうと思ったのは、男性のセクシュアリティについて、客観的な事実を解明したいと考えたからではありません。私がこの本を書こうと思ったのは、セクシュアリティについての自分のつらさや悩みがどこから来ているのかを、どうしても知りたかったからです。
 自分自身のセクシュアリティを掘り下げていくことは、どうしようもない痛みを伴います。なぜなら、それは自分自身の内面に秘めてきた「弱い部分」を、自分自身に対してあからさまにすることでもあるからです。そもそも、弱い部分であるからこそ、それを他人からも自分からも隠しているわけなのですが、しかしその部分に光を当てることをしなければ、自分のセクシュアリティのもっとも本質的な箇所を鷲掴みにすることはできません。
 そしてさらに言えば、もし他人の目に見える形でその作業をやり切ることができれば、それはきっと同じような弱さや痛みを抱えている人たちに、何かの力を与えることができるだろうし、そうやって「弱さ」を接続面としてつながっていくことによって、何か新しい世界が開けてくるのではないかと私には思えたのです。私はこの本で、自分の「弱い部分」を他人の目の前にさらけ出しました。刊行後に私が精神状態を崩した原因のひとつは、まさにここにありました。私のいちばん「弱い部分」を、誰でも、いつでも容易に刃物で刺しに来ることができるという状態に置いたのですから。

補章では、感じない男のその後、生命学との関係、ロリコン社会の進展などについていろいろと書きました。ABK48についてもちらりと触れました。

磯村健太郎・山口栄二『原発と裁判官』

原発と裁判官 なぜ司法は「メルトダウン」を許したのか

原発と裁判官 なぜ司法は「メルトダウン」を許したのか

これまでの日本の原発訴訟において、裁判官はどう考え、どう判断してきたのかを(元)当事者たちへのインタビューによって浮かび上がらせた本である。福島の原発事故の前と後では、原発訴訟に対する市民の意識もがらりと変わったであろう。なによりも、これまでの原発訴訟を裁いてきた裁判官たちがいちばん困惑していることだろうと想像するが実際はどうなのだろうか。

これは東京電力柏崎刈羽原発第一号機訴訟(新潟地裁)裁判官であった西野喜一さんの言葉である。

行政事件や労働事件、国家賠償事件、公安事件などで、国家の意思にそぐわない判決を出すと、自分の処遇にどういうかたちで返ってくるだろうか。そのように考えるのは組織人として自然なことです。原発は国策そのものである、という事実が裁判官の意識に反映することは避けられないと思います。無難な結論ですませておいたほうがいいかな、と思うことは、可能性としては十分にありえます。(84頁)

国策の推進という方針に沿った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります。(85頁)

もんじゅ訴訟高裁判決では国が敗訴した。そのときの裁判長であった川崎和夫さんはこのように言う。

国を負かすことへの抵抗は、そんなにはなかった。国策に反する判決をするから重圧を感じたかというと、そんなことは感じませんでした。しかし、『変な判決を書いたヤツだと思われるだろうなあ』という思いはありました。『川崎、ばかだなあ』と言われる気がして・・・。それがプレッシャーといえばプレッシャー。だって、それまで原発訴訟で国や電力会社側を負かした判決を出した裁判官はいなかったわけですから。(145頁)

しかしながら、その後の最高裁ではこの判決が控訴棄却となり、くつがえされたのだった。その背景にある「調査官」の実態など、なかなか興味深い。高裁の裁判長である川崎さんが、判決文を書くときに、最高裁判事に向けたメッセージ(ちゃんと勉強してほしい!という)を忍び込ませていたということには軽い衝撃を受けた。

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』

おどろきの中国 (講談社現代新書)

おどろきの中国 (講談社現代新書)

3人のソシオロゴス組(?)の社会学者が、中国をテーマに鼎談をした記録。パートナーが中国人である橋爪さんに、二人が質問するという形を取っている。全381頁ということで、新書にしてはすごいボリュームである。さすがに講談社現代新書だけあって、最初から面白く読めるようによくまとめて編集してある。全体の印象としては、中国が実際にどうか、というよりも、社会学者たちが中国をどう見ているか、中国をネタにどう盛り上がろうとしているのかを知ることができる刺激的な本という感じである。これは大澤・宮台の語りに顕著で、それに比して、橋爪は自分の見聞きしたことや調査研究したことをもとに情報提供をしており、面白いことがたくさん書かれている(専門家や通の人には常識なのだろうが)。

橋爪 (かつての中国での格差を生んでいた現物給付について)現物給付で大きいのは、住宅。自動車の提供。クッキングや掃除などの労務サービス。医療などサービスの特別待遇。骨壺を収める場所まで、ランク(級別)によって差がある。その格差は、名目上のジニ係数には反映されないけれど、かなりのものだった。(332頁)

橋爪 南京事件の意味は、逆の立場で考えてみると、よくわかると思うんです。
神奈川県や長崎県が、イギリス、フランスの植民地にされてしまった。日本がかわいそうだ、助けてあげると、中国軍がやってきた。でイギリスやフランスと戦争するのかと思ったら、なんと日本軍と戦争を始めた。「中国軍の言うことを聞け。これは日本のためなんだ」。日本政府が「いやです」と言うと、「これだけ日本のためを思ってやってるのに、まだわからんのか」と、首都の東京を占領しに攻めてきた。途中の村々は厚木でも八王子でも、物資を奪われて、火をつけられて、日本人の女性がおおぜい暴行されたり殺されたりした。東京では、逃げ出した人びとも多かったけれど、逃げおくれた民間人や東京を防衛していた兵士たちが5万人か何十万人か殺されてしまった。こんな無茶を黙っていられるか、断固戦うぞ!と、誰だって思うでしょう。そこで首都を、甲府に、そして松代に移して、国をあげて徹底抗戦する。
この怒りの核心がなにかと言うと、具体的な被害もさることながら、言ってることとやってることがちがうじゃないか、ということじゃないのか。(267−268頁)

こういうタイプの中国本というのは、たしかに、これまであまりなかったかもしれない。

ニクラス・ルーマン『社会の法』1・2

社会の法〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の法〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)

社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)

ルーマンの大著である。ルーマンは第2部の最後のほうで「免疫システム」について書いている。

法システムを、開かれた未来を全体社会のなかへと導き入れるとともに、それを拘束しもする流儀と様式であると見なすとしよう。そのとき法システムは、全体社会の<免疫システム>として把握されうることになる。・・・・免疫システムは、環境についての知見なしでやっていく。それが記録するのは、内的なコンフリクトのみである。そして折に触れて生じてくるコンフリクトに対して、一般化されうる解決策を組み立てていく。つまり、未来の諸事業のための剰余能力を備えることになるわけだ。免疫システムは、環境を探索する代わりに、自分自身に関する経験を一般化するのである。その経験が、攪乱の徴として働いてくれる。攪乱源自体は未知であり続けるにもかかわらず、である。・・・・免疫システムの働きは、攪乱を修正することにではなく、構造的リスクを緩和することにある。・・・・むしろ免疫システムを通して全体社会が、コンフリクトの恒常的再生産という、構造的に条件づけられたリスクと折り合っていけるようになるということのほうが重要である。免疫システムが(機能していくために)必要とするのは、単に環境に適応するということではない。むしろそうした適応を放棄したことから生じる帰結こそが、必要なのである。(715−718頁)

こういう世界観というか社会観を持っているというのは、ルーマンはかなりの変態ですな。